本日の箇所では、ペテロの信仰的と不信仰の対比によって、信仰の何たるかが教えられています。
〈ペテロの大胆な申し出〉
まず、注目すべきは、水の上を歩きたいとイエス様に願うペテロの申し出です。「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(28)このペテロのことばには明らかに、自然界を超越したイエス様が持つ力への信頼が込められています。彼は、「向かい風」に悩んでいる所に、湖上を歩いて近づいて来てくださったお方がイエス様だと確信したのみか、そのイエス様の許可さえあれば、自分も水の上を歩けるはずだと信じたのです。そのような意味で、このペテロの申し出は、興奮して衝動に駆られたものではなく、イエス様が全能者であると認めた上で、論理的に考えて、発言したものだと言えるのです。
〈水の上を歩くペテロ〉
この申し出はどう実現したのか。29節には、ペテロがイエス様のことばに従って一歩踏み出した時に、水の上を歩けたという事実が示されています。「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(29)ペテロには、「来なさい」と言ってくださったイエス様の言葉を疑う選択肢もあったと思います。しかし、彼は、自分の判断ではなく、イエス様の判断を信じて一歩踏み出しました。もし、ペテロが信仰による一歩を踏み出さなければ、この「水の上を歩く」という驚くべき奇跡は起こらなかったのです。
〈風を見て沈みかけるペテロ〉
さて、ペテロは模範的な信仰者から一変して情けない姿をさらします。最初は順調なスタートを切ったペテロでしたが、突如危機的状況に陥ってしまったのです。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので・・・」(30)その理由は、「風を見て」とあるように、見るべきお方から目を離したことによります。状況的には、ペテロが水の上を歩いていた時にも、ガリラヤ湖特有の強い風はペテロに吹き付けていました。しかし、自分が信頼するイエス様は、自分を守り、支えてくださっているという確信があったので、「風」は、ほとんど気にならなかったのです。ところが、イエス様から目を離して周囲の波風に目を向けた途端、イエス様に対して持っていた確信が揺らぎ、自分を取り巻く「風」という現実に心を奪われてしまったのです。その結果、恐れの感情が心を捉え、溺れかけそうになってしまったのです。
〈沈みかけるペテロを助けられるイエス様〉
大きな波がペテロを襲い、溺れかけそうになっている危機的状況の中で、「主よ。助けてください」と叫んだペテロに対して、イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と叱責のことばをかけらました。しかし、ここで注目すべきは、イエス様は、ペテロが沈みかけた瞬間に、「すぐに手を伸ばして、彼をつかんだ」状態で、彼に叱責のことばをかけたという点です。ここには、沈みかけているペテロが、自分の力で必死にイエス様の手を掴んでいるのではなく、決して沈まないお方であるイエス様の確かな御手が、ペテロの手をしっかりとつかんでいる光景が描写されているのです。
〈まとめ〉
このところから、信仰とは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブル12:2)という一点にかかっていると言えるのです。主の弟子である私たちは、この天地万物の法則を支配されている主に信頼し、このお方を常に仰ぎ見る者でありたいと思います。
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