本日は、「五千人の給食」に続く出来事として、マタイが記している「湖の上をイエス様が歩かれた」出来事を見ていきたいと思います。
〈湖の上で向かい風に悩む弟子たち〉 まず、出来事の流れとして、前の箇所で、パンの奇跡を体験した群集たちが、イエス様を王に祭り上げようとしたことがあり(参照 ヨハネ6:15)、その興奮・熱気に、弟子たちが巻き込まれないようにとの判断から、イエス様は「弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ」(22)ました。しかし、イエス様の指示に従って舟を漕ぎ出した先に待っていたのは、「向かい風」という困難だったのです。彼らは、ガリラヤ湖特有の突風による波に「悩まされ」、自分たちの思うとおりに進むことが出来なくなっていたのです(24)。イエス様が不在の中で、自分たちだけの力や経験だけを頼りにせざるを得ない状況に立たされた彼らは、かなりの時間、波によって浮き沈む舟をなんとか目的の場所に着かせようと努力したのです。弟子たちの中には、元漁師の者もいたわけですが、風と波はあまりに激しく、困難な状況が続く中で、体力的にも精神的にも疲れ果てたことでしょう。
〈湖の上を歩いて弟子たちに近づかれるイエス様〉 さて、弟子たちが、もはや自分の力に頼ることの限界を感じていたであろう「夜中の三時ごろ」(25)、イエス様が行動を起こされました。驚くことにイエス様は、弟子たちを悩ます「風」や「波」に悩まされることもなく、しかも「湖の上を歩いて」近づいて来られたのです。ここに、イエス様が自然法則を超越されたお方として示されています。
〈狼狽し、パニック状態に陥る弟子たち〉
このイエス様を弟子たちはどのように迎えたのでしょうか。26節によれば、弟子たちは、湖の上を自分たちの舟に向かって歩いて来られるイエス様を見て、「幽霊」と勘違いしたのみか、「おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた」(26)と、一種のパニック状態に陥ってしまったのです。彼らがこのような反応をした理由としては、精根尽きて、精神的にゆとりがなかったこと、また真っ暗闇であったので、暗い中に近づいてくるイエス様の姿がはっきり見えなかったことが挙げられます。しかし、それ以上に言えるのは、彼らは、「向かい風」に悩まされる中で、自分の力に頼ることで心がいっぱいになってしまい、自分たちを助けて下さるイエス様の存在をすっかり忘れていたということが挙げられます。それゆえ、このような態度を取ってしまったのです。このような怖気づいている弟子たちに対して、イエス様は、ひと言の叱責や非難のことばを浴びせることもなく、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(27)と、励ましの言葉をかけられたのです。この「わたしだ」という表現は、単にわたしたち人間が自分の存在を伝えるために、「わたしである」と伝えるものではなく、イエス様は「わたしこそ」生ける神、風と波の支配者であるという深い意味なのです(参照 出エジプト3:14)。
〈まとめ〉
(1)主の御言葉に従った歩みであったとしても、人生の「向かい風」に悩まされることがある。(2)私たちは、現実の困難に心奪われて、自分の力だけに頼る時、主の存在をすっかり忘れてしまうことがある。(3)私たちは、恐れ、惑う中にあっても、全てを超越されたお方の励ましを受けることができる。
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