検見川聖書バプテスト教会
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  良心の呵責に苦しむヘロデ  

2010年8月15日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイ14章1〜12節

[1]そのころ、国主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 [2]侍従たちに言った。あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だからあんな力が彼のうちに働いているのだ。」 [3]実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。 [4]それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。 [5]ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。 [6]たまたま、ヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。 [7]それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。 [8]ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」 [9]王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命じた。 [10]彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 [11]そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 [12]それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そしてイエスのところに行って報告した。。

説教要旨

本日からマタイ福音書は14章に入ります。今日の箇所には、当時ガリラヤの国主であったヘロデの恐れと、イエス様の先駆けとして道備えの働きをしたバプテスマのヨハネの死の事情が記されてあります。この箇所から、私たちの内にある「罪意識」の問題について考えていきたいと思います。

〈良心の呵責に苦しむヘロデ〉
ここに登場する「国主ヘロデ」(1)とは、ヘロデ大王の第四の妻の息子「ヘロデ・アンティパス」のことです。1,2節では、良心の呵責に苦しむヘロデの姿が描写されています。この時の彼は、他人の妻を欲しがる「むさぼり」の罪、それを強引に奪う「盗み」の罪、さらに、義理の姉妹でもあるヘロデヤと結婚する「姦淫」の罪、そして自分の罪を指摘したバプテスマのヨハネを捕え、処刑する「殺人」の罪を犯していたのです。この一連の罪は、彼の心に後悔と恐れを引き起こし、彼の犯した罪による罪責感から、バプテスマのヨハネと、イエス様を結びつけ、「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」(2)と決めつけたのです。あることに良心の呵責を感じると、本来無関係な事柄を勝手に結びつけ、現実を正しく認識できなくなることがありますが、この時のヘロデはまさにそのような状態にいたのです。  以上のヘロデの姿から、罪意識についてまとめたいと思います。@罪意識は、悪を行う時に良心(道徳的に正邪・善悪を判断する意識)が反応することによって生じる。例:敬うべき人を敬わない、他人を傷つける、姦淫、盗む、嘘をつく、むさぼるなど。 A罪意識は、人間の心に負の感情(恐れ、不安、後悔)を引き起こす。 B罪意識は、現実を歪ませて認識させる。宗教改革者カルヴァンは、「良心の呵責は、この世に居ながらの地獄である」と述べています。人は、自分が罪人であることを認める、認めないに関わらず、この罪意識(良心の呵責)によって苦しみ続ける存在なのです。

〈罪意識に蓋をしたヘロデ〉
 なぜ、ヘロデはここまで罪意識に苦しむようになったのでしょうか。その最大の理由は、ヘロデが自分の罪と向き合わなかったことにあります。バプテスマのヨハネは、国主ヘロデに対して、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」(4)と彼が「兄弟ピリポの妻ヘロデヤ」をめとった罪を指摘しました。しかし、ヘロデはそれを素直に認めることができなかったのです。その代わり彼がしたことは、王に歯向かう者としてヨハネを「捕らえて縛り、牢に入れ」(3)ることでした。結果的に、ヘロデは自分の罪と向き合う機会を逸したばかりか、自らの罪意識を成長させる機会にしてしまったのです。  その後、彼は、自分の誕生祝の席で、不用意な約束をしてしまいます。ヘロデヤの連れ後である「娘」(サロメ)が、「みなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた」(6)ことで気を良くし、ヘロデヤの娘に対して、「願う物は何でも必ず上げる」(7)と国主としての権威に基づいて、取り消せない約束をしてしまったのです。実は、この「娘」の「踊り」の背後には、妻ヘロデヤの陰謀があったのです。マルコ6章19節に「ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた」とありますように、ヘロデヤが娘の背後で糸を引いていたのです。この不用意な約束をした結果、事態はヘロデにとって予想外の方向に展開していきました。何と娘がヘロデに望んだ褒美は「バプテスマのヨハネの首」(8)という極めて残虐な要求であったのです。まだ良心のかけらが残っていたヘロデは、「心を痛め」(9)ましたが、取り消せない誓いをしたことと、客人たちの前で面子を保ちたいという自己保身の思いもあって、誓いを撤回せず、実行に移してしまうのです。このようにして、ヘロデは、“取り返しのつかない過ち”を犯してしまったのです。自分の罪と向き合わないで、それを放置したヘロデは、ヨハネを処刑するという大きな罪を犯してしまい、その結果、彼は富も権力も、栄誉を持ちながら、言いようもない罪責感にただ苦しむ人となっていったのです。箴言には「悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわめにつながれている」(5:22)と記されていますが、そのとおりだと思います。

〈罪意識との向き合い方〉
では、私たちは自らの内にある罪意識とどう向き合い、対処していけばいいのでしょうか。その秘訣の一つ目は、罪意識を、罪の赦しの必要性を覚える良きものとして受け止めることです。蓋をして向き合わず、水に流すならば、いつまで経っても本当の解決はありません。私たちはこの罪意識によってのみ、来るべき神の裁きを知り、自らの救いの必要性、罪の問題を解決する緊急性を覚えることができるのです。テルトゥリアヌスという古代の神学者が「良心の呵責は、終わりと審きと刑罰の予表である」と述べているとおりです。秘訣の二つ目は、罪意識を解決するためには、正しい方法を選択しなければならないということです。自分なりの解決法を考えて、実践してもそこには真の解決はありません。どんなに過去の過ちを後悔しても、忘れようと強く願っても、決して解放されることがないのが、罪意識だからです。秘訣の三つ目は、罪意識は、神が用意された方法によってのみ解決できるということです。神の前に自分の罪を悔い改め、神が遣わしてくださった救い主であるイエス・キリストを信じることによって、「あなたの罪は赦された」との完全な罪の赦しの宣言をいただくことができるのです。この神の赦しの宣言を受けた者が持つことのできる確信をチャールズ・ウェスレーは次のように述べています。「今はもう、どんな罪の宣言だって恐れはしない。イエスよ、あなたのすべてが私のもの。私は生ける頭なるあなたに生きる。私は神の義を着せられている。」  最後にお尋ねします。自分の罪と向き合わず、罪に罪を重ねてしまったヘロデの姿と、今現在の私たちの姿は重ならないでしょうか。もし重なるのであれば、自分のうちにある罪意識と向き合い、真実な主の御前に罪の重荷を降ろそうではありませんか。そうすれば主は必ず私たちに真の解決を与えてくださいます。   

 
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