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  偏見と先入観は神の力と働きを制限する  

2010年8月8日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイ13章53〜58節

[53]これらのたとえを話終えると、イエスはそこを去られた。 [54] それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。 [55]「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。 [56] 妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」 [57] こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」 [58] そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。

説教要旨

本日の箇所は、イエス様がご自分の故郷に帰られた際に、故郷の人たちにどのような態度で迎えられたのかが記されています。この箇所を通して、私たちに対する神の力を制限させる「偏見と先入観」の問題を考えていきたいと思います。

〈故郷の人々がイエス様にとった態度〉
まず、イエス様の教育法を見ていきましょう。一言で言うとそれは弟子としての意識を育てる点にあります。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(51)との弟子たちへの質問には、「御国の説教」を弟子たちがきちんと理解したか確かめようとの意図が込められています。イエス様は、こう尋ねることで、教えを聞いた弟子たちが自分に対して説教が語られたことを自覚し、弟子としての意識を育てようとされたのです。

 イエス様は、「御国の説教」(13章)を語り終えた後で、ご自分が30年近く過ごされた郷里の町「ナザレ」に行かれました。おそらく、ご自分の「郷里」の人々にも、神の国の福音を伝えようとされたのでしょう。実家に帰ることもせず、すぐに「会堂で人々に教え始められた」(54)のです。このイエス様の教えを聞いた郷里の人々は、イエス様に対して二つの態度を取りました。その一つは、イエス様の教えに込められた「知恵と不思議な力」に驚いたこと。この「驚いて」ということばには、極めて強い驚きが込められており、「圧倒された」「仰天した」という意味があります。彼らは、家族のことも含めて、幼い時からよく知っている「イエス」様のあまりの変わりようにとても驚いたのです。二つ目は、教師となるために正規の学びをしていないはずのイエス様が「どこで(それを)得たの」か、という疑問を持ったこと。「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。・・・」(55、56a)彼らは自分たちが知っている限りのイエス様に関する情報を引っ張り出しましたが、いくら考えても「知恵と不思議な力」の由来が分からず、再度、「いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう」と述べ、イエス様に「つまずいた」(57)のです。この「つまずいた」とは、「次々につまずいた」とか、あるいは「つまずきっぱなしだった」というニュアンスが込められています。つまり、イエス様が持つ「知恵と不思議な力」は認めたももの、その能力がどこに由来するのか分からず、最終的に救い主としてのイエス様を受け入れることができなかったのです。

その故郷の人々に対して、イエス様はたったひと言、昔から語り継がれている諺(ことわざ)を示されました。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」(57)通常ユダヤにおいて預言者は神の人として適切な尊敬を払われていました。しかし、自分の郷里、家族の間ではそうではなかったのです。それは、幼い頃から身近で接してきたがゆえに、預言者が持つ神的側面より、どうしても人間的側面に目を向けてしまうからなのです。

〈郷里の人々の態度と御国の説教との関連〉
さて、前回までの「御国の説教」を通して私たちは、天の御国は他と比較にならない尊い宝であるのに、隠れていることを学びました。イエス様は、神としての栄光、まばゆいばかりの輝きを身にまとい、天の軍勢を伴って、この地上に来られたのではなく、貧しさ、弱さ、低さを身にまとい、故郷に来られました。しかし、ナザレの人々にとってイエス様は、あくまでも神から遣わされた救い主ではなく、ヨセフ一家の長男でしかなかったのです。この郷里の人々の反応から、私たちは、この「隠された宝」であるイエス様を、偏見や先入観に捉われて見る人々の前では、なお隠されたままで終わってしまう事を知るのです。   

〈イエス様が郷里の人々に取った態度〉
58節には、今度はナザレの人々がイエス様からどのような態度を取られたのかが記されています。「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」(58)イエス様は多くのケースにおいて人々の信仰に応じてみわざをなさいました。たとえば百人隊長のしもべを癒された時も、百人隊長の立派な信仰に驚いて、みわざがなされています(マタイ8章)また、「中風の人」を癒された記事を見ても、イエス様が人々の「信仰を見た」ことが証言されています(マタイ9章)。しかし、ご自分の郷里においては、人々の「不信仰のゆえに」(58)その力を発揮することができなかったのです。ここから私たちは、奇跡やしるしは、今ある信仰を深めるためのものであって、その逆ではないことを知るのです。

〈「偏見」と「先入観」の問題〉 
最後に本日のテーマでもある「偏見と先入観」の問題について共に考えたいと思います。まず言えることは、これらのものは、生きていく上で、人に自然に備わるものだということです。どんな人であれ、「偏見や先入観」の無い人はいないのではないかと思います。そのような意味で、罪の性質を持って生まれた私たちが「偏見や先入観」を持つこと自体は、ある程度仕方ないことかもしれません。しかし、問題は、「先入観と偏見」に捉われた物の見方、考え方を絶対化してしまう点にあるのです。それ以外の物の見方を受け入れないで自分の考えに凝り固まってしまうことが、最も大きな問題なのです。ナザレの人々は、自分たちが知っているイエス様に関する情報だけに捉われて、イエス様をただの人と見なしました。その結果彼らは、神の視点を失い、それが救い主に対する認識を歪ませ、ついには神の祝福を自分たちから遠ざけてしまう結果を引き起こしてしまったのです。 さて、終わりに考えたいと思います。ナザレの人々が抱えていた問題は、私たち自身が今現在抱えている信仰の問題でないかということを。私たちが、神との関係において、なお「偏見と先入観」に捉われるならば、神の力と働きは制限されてしまうのです。このことは、結果的に私たちに対する神の祝福を遠ざけてしまうことにつながります。もし、私たちがそのことに気がついたならば、悔い改めの思いをもって、次のパウロの宣言を自らの宣言にしようではありませんか。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(1コリント5:16)

 
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