検見川聖書バプテスト教会
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  御国の説教(7)−結び  

2010年8月1日(日) 夕拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイ13章51〜52節

[51] 「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。 [52] そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

説教要旨

本日で「御国の説教」は最後となります。この結びの箇所を通して、二つのことをお話したいと思います。ひとつは、イエス様の弟子たちに対する教育法について、二つ目は、天の御国の弟子が神様から期待されていることです。

〈イエス様の教育法〉
まず、イエス様の教育法を見ていきましょう。一言で言うとそれは弟子としての意識を育てる点にあります。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(51)との弟子たちへの質問には、「御国の説教」を弟子たちがきちんと理解したか確かめようとの意図が込められています。イエス様は、こう尋ねることで、教えを聞いた弟子たちが自分に対して説教が語られたことを自覚し、弟子としての意識を育てようとされたのです。

 このような弟子としての意識を育てる点は、「はい」と弟子たちが答えた後のイエス様の反応にも見られます。弟子たちは、自分たちは「わかった」つもりになっていたわけですが、必ずしも正しく理解していたのではないようです。それはこの少し後で、彼らの悟りの鈍さを厳しく叱責されているからです(参照マタイ15:15〜17、16:8〜12)。しかし、イエス様は、彼らのその答えをそのまま受け止められ、期待を込めてこう呼ばれたのです。「だから、天の御国の弟子となった学者は・・・」(52)イエス様の教育法は、現在の不十分さだけを指摘して自信を失わせるのではなく、将来到達するであろう状態に弟子たちの意識を向かわせる点にも見られるのです。これは極めて優れた教育法であることをある教育学者が指摘しています。『人というのは、自分にとって重要な他者(たとえば、親・教師)が思っているような人間になるという傾向がある。その人から期待されると伸びていくし、期待されないと「それぐらいでいいのだ」と開き直ってしまうところがある。』(斉藤孝著『教育力』p.174) 弟子たちは、最初から悟りが鈍く成長の遅い人たちでした。しかし、素晴らしい教育者であるイエス様との関わりを通して、弟子としての意識を育てられ、立派に成長していったのです。

〈天の御国の弟子たちが神様から期待されていること〉 
次に、52節を通して、弟子たちが神様から期待されていたことを見ていきましょう。それは、豊かな御国の知識を持つ「学者」としての働きです。例えて言えば、検事や弁護士、裁判官は、法律についての豊かな知識をもって、現実のさまざまな問題に、その知識を取り出すことができる「学者」です。弟子たちは、「自分の倉」である心から、イエス様の教えである「新しい物」でも、旧約聖書の教えである「古い物」でも、自由に引き出し、天の御国について解説する働きを期待されていたのです。それはあたかも、「一家の主人のようなもの」なのです。「一家の主人」が家族が時々に必要なもの(お金、食べ物、知恵、励まし)を適宜取り出すことができるように、イエス様の弟子たちは、彼らにしか出来ない使命を帯びて、人々に天の御国の素晴らしさを説き明かしていくのです。弟子たちは、ただの弟子たちではなく、天の御国の弟子となった学者なのです。それは、神様から特別に期待されている人たちであることを示しています。   

 
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