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  御国の説教(5)−畑に隠された宝と良い真珠のたとえ  

2010年7月18日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイ13章44〜46節

[44] 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 [45] また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 [46] すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

説教要旨

本日は、御国の説教に収録されているたとえの内、五番目の「畑に隠された宝」のたとえと、六番目の「真珠商人」のたとえを共に見ていきたいと思います。ここでは、天の御国(神の国)が、どんな大きな犠牲を払ってでも獲得したいと思うほどに価値あるものであることが明らかにされています。

〈たとえの説明〉
まず、最初のたとえですが、「畑に隠された宝」との表現には、当時の人々にとって、地面の下に財産を隠すことが、最も安全な保管場所であったことが示されています。「畑」は、現代的に言えば、金庫や銀行のような使われ方もされていたのです(参照 マタイ25章25節)。この場合では、「宝」を畑に埋めた所有者が何らかの理由で死んだ後、別の人が偶然「その宝を見つけ」たわけですが、強調点は見つけた人のその後の反応に置かれています。「人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで(家に)帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(44節)。その「宝」の価値が絶大であったため、それを見つけた人は、すぐさま畑の所有権を取得する手続きを進めたのです。そうすることによって、「畑に隠された宝」を自分のものにすることができたからです。 次の「良い真珠を探している商人」(45節)のたとえも、強調点は同じです。唯一、前のたとえと異なっているのは、「良い真珠を捜している商人」が長い間苦労して探し回った結果、「すばらしい値打ちの真珠」を獲得したという点です。しかし、各々の発見に至るプロセスが異なっていても、共通しているのは、「宝」や「真珠」を発見した事実と、発見したことに対する強烈な感動、さらに発見者はすべてを犠牲(あるいは全力を傾けて)でも、それを手に入れるということです。

〈このたとえから考えるべきこと〉
さて、上述のことを踏まえて、考えてみたいことがあります。それは、私たちの人生において当てはまることだと思うのですが、ふたつのたとえに登場する人たちのように、私たちもまた人生において価値探しの旅をしているということです。建築家の安藤忠雄氏は、『自分にとっての価値とは何なのか、それを捜すことが自分を発見することであり、ひいては自分自身の幸せを見つけることではないでしょうか』と述べています。人は誰もが自分自身の幸せを見つけたい、だから、自分にとっての価値を探して、価値ある自分を発見したいのです。そのように考えていくと、自分にとって本当に価値あるものを発見することが、人にとって最優先する事柄ではないでしょうか。   

そのような人に対して、イエス様は、本当に価値あるものは、「天の御国」であることを教えてくださっています。すなわち、この世における神のご支配を認め、そのご支配にすべてを委ねて生きることこそが、あらゆるものを犠牲にしてでも、手に入れたいと望むものであると。私たちクリスチャンは、そのような価値ある“天の御国”という「宝」を発見し、神の恵みによって手に入れた者なのです。

 
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