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  御国の説教(3)−毒麦のたとえ  

2010年6月27日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書13章24〜30節、36〜40節

[24]イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 [25]ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 [26]麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 [27]それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 [28]主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 [29]だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 [30]だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

[36]それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。 [37]イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。 [38]畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。 [39]毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。 [40]ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

説教要旨

本日は、御国の説教における二つ目のたとえ「毒麦のたとえ」です。イエス様は最初の種蒔きのたとえで、四番目の良い地に落ちた種が豊かに実を結ぶことを教えられましたが、今日の「毒麦のたとえ」は、それを踏まえての話です。

〈毒麦のたとえのポイント(1)−しもべの問いと主人の答え〉
まず良い麦の種だけを蒔いた畑から毒麦が現れたことを不可解に思ったしもべの問いです。「ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう」(27節)。しもべたちにとっては、良い種を蒔いた良い地から毒麦が芽生えることは、思いもよらぬことであったのです。

誰かが毒麦の種を蒔かない限り、毒麦が生えてくるはずはない。そのような思いから、しもべたちは、良い種が蒔かれた畑に生じた問題に関して、事実を確かめる必要を覚えたのです。このしもべの問いに対して、主人は即座に「敵のやったことです」(28節a)と答えます。驚くことに主人は、事の一部始終を把握しており、良い種を蒔いた畑に、敵の働きかけがあった事実をしもべたちに明らかにしたのです。

〈ポイント(2)−しもべの提案と主人の判断〉
主人のことばを聞いたしもべたちは、自分たちの責任でないことがわかり、安堵したと思います。しかし、だからといって、黙って手をこまねいているわけにはいかないと考え、この問題を解決する方法を主人に提案しました。「では私たちが行って、それを抜き集めましょうか」(28節b)・・・.。

問題の原因を把握した場合に取られる対策として、直接その問題を取り除くのが世の常識です。しかし、主人は「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」(29節)と意外な判断を下したのです。しもべたちの思いに反して、主人は毒麦をそのまま放置しておくようにと指示したのです。

その理由として、(1)「麦」と「毒麦」は穂が実るまで(収穫以前)は大変区別がつきにくいこと、(2)両者の根は互いに絡んでいて、毒麦を抜こうとすると、周囲の麦まで一緒に抜いてしまう危険性があったことがあげられます。

〈イエス様による解説〉
36節から40節において、イエス様は弟子たちの要請を受け、毒麦のたとえを解説しています。「イエスは答えてこう言われた。『良い種を蒔く者は人の子です。・・・』」このたとえを通して、イエス様が明らかにされた真理は、神様の視点に立った正しい世界観です。すなわち、この世界は、神が支配下にあること、そしてイエス・キリストによって、「正しい者」として私たちクリスチャンが蒔かれているが、そこに神の敵であるサタンが「毒麦」としての悪や禍の種を蒔いているという状況がある、それゆえに良い麦と毒麦とは、神のさばきとしての「収穫」の時まで、しばらくの間共存するが、やがて「この世の終わり」に両者は分けられ、それぞれにふさわしい状態に置かれるということです。

最後にイエス様は、「耳のある者は聞きなさい」(43節b)と言われました。私たちは、毒麦のたとえを通してイエス様が明らかにしてくださった神の国の真理を、正しく汲み取っていく者でありたいと思います。

〈結論〉
これまでのことを踏まえて、この「毒麦のたとえ」から汲み取れることは何でしょうか。

第一に、しもべたちが主人に投げかけた問いは、この世に生かされている私たちクリスチャンも神に投げかける問いであること。義なる神が造った世界に、どうしてこんなに多くの悪がはびこるのだろう、と悪しき力の存在をクリスチャンはこの現実の世界において目の当たりにします。そして、私たちはこうして、しばしばこの世の悪の大きさの前に戸惑い、心を痛め、神に対して「どうして」と問いかけるのです。

第二に、神はすべてを把握し、明快な答えを持っておられること。悪は誰によってもたらされているのか、それらは最終的にはどのような状態に置かれるかを神はすべてご存知です。ですから、私たちは神のあずかり知らないところ、支配されていないところで問題は何一つ起こっていないという事実を覚え、安心することができるのです。

第三に、私たち神に国の民であるクリスチャンが成すべきことは、この世の悪や禍に対して早まったさばきを下すことではなく、最終的な神のさばきに委ねること。正しい者と悪い者を分けるのはキリスト者の役目・責任ではありません。私たちが成すべきことは、この世に福音を伝え、隣人のために執り成し、地の塩、世の光として自分自身の信仰の証しを立てることに他ならないのです。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。・・・外部の人たちは神がおさばきになります・・・」(Iコリント5章12〜13節)。

 
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