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  御国の説教(2)−たとえの目的  

2010年6月20日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書13章10〜17節

[10] すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」 [11]イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 [12]というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。 [13] わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。 [14] こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。 [15] この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』 [16] しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 [17] まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。

説教要旨

本日は、「種蒔きのたとえ」が群衆にはなぜたとえだけで語られたか、という弟子たちの質問とそれに対するイエス様のお答えを通して、「見える目」と「聞く耳」を持つことの大切さを学んでいきたいと思います。  

〈語る側の意図を汲み取ろうとした弟子たち〉
まず「種蒔きのたとえ」を聞いた直後、弟子たちはイエス様にある質問を投げかけました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか」(10節)。この質問は、どうして群衆たちに対して、聞いても謎が深まるような(たとえだけの)説教をされたのか、その理由を尋ねるものでした。

彼らは、聞いた御言葉に対して、ただ受け身で、自分なりに理解すれば良いとは考えず、説教者の立場に立って、御言葉をより正しく汲み取ることを求めたのです。このような質問をする弟子たちの姿から、御言葉を聞く時に、ただ自分の立場だけで聞けば良いのではなく、説教者(神様)の意図がどこにあるのかを汲み取ろうとする姿勢の大切さを教えられます。

〈イエス様の返事〉
この弟子たちの問いに対して、イエス様は「わたしたが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」(13節)と答えられました。イエス様は、ご自身が「たとえで語られた目的」は、群衆たちが、神のことばに対して「見る目」と「聞く耳」を持っていないからであると明言されたのです。

群衆たちは、信じるために十分な情報(神の教えと御業)が提供されているにも関わらず、聖書のメッセージに対して心を閉ざす人々であったのです。そして、このことは、イザヤが預言したことの成就であるとイエス様は言われました。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。・・・それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためです」(14〜15節)。

残念なことですが、群衆たちに代表されるような御言葉に心を閉ざす姿勢は、聖書の時代のみならず現代に生きる私たちの中にも蔓延しているものではないでしょうか。聖書を読みながら、教会に行きながら、福音に触れていながら、「見ていない」「聞いていない」ことがもし私たち自身にも当てはまるとしたら、それは極めて深刻な事態だと言わざるを得ません。

〈祝福のことばを頂く弟子たち〉
神のことばを聞く恵みにあずかりながら、心を閉ざしていた群衆たちと対称的に、弟子たちはイエス様から祝福のことばを頂きました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。またあなたがたの耳は聞いているから幸いです」(16節)。悟りの鈍い弟子たちではありましたが、彼らの心は御言葉に対して開いていたのです。それゆえに彼らは「幸い」なのです。「見る目」と「聞く耳」を持っている人は“豊かに実を結ぶ”という「幸い」を、自分のものにしている事実がここに示されています。

 
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