検見川聖書バプテスト教会
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  まことの親族  

2010年6月6日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書12章46〜50節

[46]イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。 [47]すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」 [48]しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」 [49]それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 [50]天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

説教要旨

マタイ12章は、今日の箇所で最後となります。ここではイエス様の家族(母と弟たち)が登場していますが、この家族とイエス様とのやりとりを通して、大切な二つの事柄が示されていますので、共に見ていきたいと思います。

〈ここで明らかにされたこと(1)−家族のつまずきがあった〉
人は誰でも家族の一員として共に助け合い、成長する存在です。このことは、イエス様自身も経験されたことでありました。家庭にあってイエス様は長男として、早くに亡くなった養父ヨセフの代わりに家族を経済的に助け、30歳まで家族と共に暮らしていたのです(参照マタイ13章55〜56節)。その家族が、説教をしているイエス様のところに会いにやってきた・・・何のためか。マタイ福音書は省略していますが、マルコ福音書がその状況を詳しく記しています。

「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ。』と言う人たちがいたからである」(マルコ3章21節)。おそらく家族としては、人々から聞くイエス様についてのよからぬ噂に戸惑い、もしかしてイエス様が精神的におかしくなったのでは?と考え、周りの迷惑にならぬよう連れ戻そうとして、ナザレの町からカペナウムまでやってきたのです。

このことから、一番の理解者であるはずの家族でさえも、メシヤとして活動されていたイエス様を理解することができなかったことがわかります。私たちはイエス様がそもそも不可解な人物で、その全体像を把握するには幾らかの時間と労力がいること、あるいは自分の頭の中で納得できるように作り直したイエス像を持つのではなく、このマタイが証言するイエス様をありのまま受け止めることの大切さを覚えるのです。

〈明らかにされたこと(2)−まことの親族は誰であるか〉
次に明らかにされたのは、まことの親族は誰であるかです。家族が会いに来ている、と取り付いだ人に対してイエス様は、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」(48節)と、その場に居合わせた人々が戸惑うような質問をしたのです。この問いは、要するに「母や兄弟とは、いったい誰を指しているのか」ということです。血筋による家族の絆を否定するような発言です。

しかし、ここで誤解してはならないのは、イエス様は決して家族をないがしろにして良いと言われたのではありません。それは、十字架の上で母マリヤに深い配慮を示されたことからも明らかです(ヨハネ19章26〜27節)。イエス様が教えようとされたのは、「天におられるわたしの父のみこころ」(50節)によって結ばれた“神の家族”の絆が、「まことの親族」であるということなのです。血筋による親族を超える家族は、信仰者による霊的共同体であるという真理が明らかにされました。

最後に、私たちは互いに「父のみこころ」によって結ばれた家族である事実を心に刻みましょう。そして、信仰の家族として、心から「兄弟姉妹」と呼び合う恵みを覚え、より真実な関係を目指していきたいと思います。

 
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