2010年5月30日(日) 礼拝説教要旨 |
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聖書箇所:マタイの福音書12章43〜45節 |
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[43]汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。 [44]そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。 [45]そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」 |
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説教要旨 |
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本日は"悪霊の住処"のたとえを通して、私たちが自らの魂を「危険な空き家」の状態にしてしまってはいないか、顧みていきたいと思います。 〈たとえのあらまし〉 この家(人の魂)は、折角「汚れた霊」が出て行ったにも関わらず、ほったらかしのままで、汚れた霊の再度の侵入を防ぐ手立てを全く取っていなかったのです。それゆえ、「汚れた霊」はある事を思いつき、実行に移します。それは、「自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつく」(45節)ことでした。以上、このたとえは、人の魂の状態が、初めの状態よりさらに悪くなるプロセスを示したものなのです(45節b)。 〈このたとえが示していること〉 第一は、人は人間的な努力で、ある程度までは自分の魂の状態を改善できるということ。いつの時代の人々にも、自分の考え方を変えることや人間的な努力を重ねることで、自己改善を目指す傾向が見られます。確かに、自己啓発的な考え方、あるいは道徳教育、一般的な宗教的な活動、さらに教会における求道者としての歩みは、ある程度の改善を人にもたらします。「汚れた霊」が人から出て行ったとあるように、悪い考え、悪い習慣から抜け出し、良い考え方と習慣を身につける中で、"自分は良くなった"と思える状態に到達できるのです。 第二に、人の魂は「空き家」のままでは危険であるということ。人がする自己改善の努力は、実は人の魂を「空き家」の状態にするだけで、反って「汚れた霊」と「悪いほかの霊」の進入に対して居心地の良い状態を提供してしまう事実を、このたとえは示しているのです。魂の「空き家」は実に危険なのです。 第三に、その結果、初めの状態よりさらに悪くなること。このことは、時として、教会に集う求道者にも見られることです。求道はしていても、自分の望む救いに固執し続けるならば、罪の悔い改めと神への従順が中途半端なものになります。それゆえ、肉の思いから離れられず、思い煩いが増して身勝手な態度を取ってしまうので、自らの抱えている問題をさらに悪化させてしまうのです。 以上のことから、この箇所を通して、神が私たちに示されている真理は何でしょうか。それは、人の魂には、イエス・キリストを主と迎えて、神のご支配が確立しなければならないということです。私たちは自分の魂を「危険な空き家」にしてはいないか、点検しつつ、真の悔い改めと従順に進もうではありませんか。 |
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