検見川聖書バプテスト教会
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  ベルゼブル論争  

2010年3月28日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書12章22〜30節

[22]そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。 [23]群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」 [24]これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」 [25]イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。 [26]もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。 [27]また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。 [28]しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 [29]強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。 [30]わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

説教要旨

本日はイエス様とパリサイ人との間で論じられた「ベルゼブル論争」です。ここでの論点は、“イエス様の癒しの力はどこから来たのか”です。

〈「ベルゼブル論争」の概要〉
この箇所の流れとしては、まず悪霊につかれて「目も見えず、口もきけない」人をイエス様が癒す場面があります(22節)。次に、その奇跡を見た群集は驚き、「この人は、ダビデの子なのだろうか」とイエス様が旧約聖書で約束されたメシヤなのかと思い始めます(23節)。この群集のことばを聞いたパリサイ人は、イエス様が奇跡を行った事実は認めたものの、イエス様の癒しの力は、「ただ悪霊のかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と非難したのです(24節)。

後半の25〜30節では、そのパリサイ人の批判に対するイエス様の反論が述べられています。この反論の要点は、ご自分の癒しの力は「悪霊のかしら」によるのではなく、神の御霊によるのだということです。奇跡の事実は認めても、イエス様をメシヤとはどうしても認めたくなかったパリサイ人の悪意あることばに、冷静に理路整然と反論されるイエス様の対決姿勢が印象的です。以上が「ベルゼブル論争」の概要です。

〈この箇所から汲み取れる教え〉
この箇所には、聖書全体と整合のとれる三つの真理が教えられています。

第一に、奇跡的な出来事が人の心に信仰を生じさせるわけではない。目の前で特別な神のわざを目撃したにも関わらず、群衆もパリサイ人もイエス様をメシヤと心から信じることをしませんでした。信仰を持つことに際して大切なのは、奇跡を目撃したり、体験するかどうかではなく、その人の心が真理に対して敏感であるか、なのです。

第二に、イエス様は地上の生涯の中で、私たちと同じ試みを受けてくださった。イエス様はいつもご自身を排除しようとする敵対者(パリサイ人)に囲まれ、人々からの無理解ゆえの苦悩を体験なさいました。人としての深い苦悩を通られたゆえに、イエス様は私たちの苦しみをも良く理解し、共に居て励ましと慰めを与えてくださるのです(参照 ヘブル4章14〜15節)。

第三に、イエス様のことばは、人々の心の矛盾を指摘する。パリサイ人の批判は、イエス様を罠に陥れる目的のもので、全体的に調和がとれたものではなかったのです。彼らの主張は矛盾に満ちたものでありました。全体的に考えると、おかしいのは明らかなのに、自分の思いに固執しているから見えなくなる。イエス様のことばは、そのような人々の心のいろいろな考えやはかりごとを判別するのです(ヘブル4章12節)。

最後にイエス様は、30節で「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」とおっしゃられました。このことばは、イエス様に対して取る態度には中立はないことを示しています。私たちは、主に逆らう者、散らす者でないか、今一度自分を吟味する必要があるのではないでしょうか。

 
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