検見川聖書バプテスト教会
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  安息日に良いことをする  

2010年3月14日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書12章9〜14節

[9]イエスはそこを去って、会堂にはいられた。 [10]そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。 [11]イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 [12]人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」 [13]それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。 [14]パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

説教要旨

神が律法で定められた聖なる日である安息日に「してはならないこと」は何か、これが前回の箇所でパリサイ人とイエス様の間で論争の争点となった事柄です。本日の箇所では、安息日に人を癒すことは「正しい」か「否か」が論点になっています。ここから私たちは主の日のふさわしい過ごし方を学ぶことができます。

〈パリサイ人の誤り〉
まず、「安息日にして良いこと」を正しく理解し、実践しているつもりになっていたパリサイ人でありますが、実際には彼らの心が神に向けられていなかった事実が示されています。「イエスは・・・会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、『安息日にいやすことは正しいことでしょうか。』と言った」(9〜10節)。当時、安息日に助けて良い対象とされていたのは、人の生命に関わるケースだけでありました。

ですから、パリサイ人は、「片手のなえた人」がそれに該当しないことを知った上で、イエス様を律法違反として「訴える」口実を得ようと質問したのです。こともあろうか彼らは、自分たちの目的を果たすために、一人の礼拝者として会堂に来ていた「片手のなえた人」を利用したのです。このような彼らの態度は、「安息日」に心を神に向けていなかった罪と、隣人に対する愛と同情心を欠いていた罪を表しています。ここから私たちは、彼らの誤りが、安息日を形だけ守ることに捉われて、神への愛、隣人への愛をおろそかにしていた点にあったことを知るのです。

〈彼らの誤りを正されるイエス様〉
このパリサイ人によって巧妙に仕掛けられた罠に、イエス様はどう対処されたのでしょうか。イエス様は、直接的に答えることはせず、逆に質問を投げ返されたのです。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。」(11節)。

当時の人々の間では、このようなケースで羊を穴から引き上げることはよいという考えが一般的であったようです。そのような共通認識に立って、イエス様は「人間は羊より価値があるものでしょう。それなら、安息日に良いことをするのは正しいのです」(12節)と、羊と人間の価値を比較し、人を癒すことが動物を助けることに勝っていると指摘されたのです。そして、イエス様は、「片手のなえた人」に、愛と憐れみの手を差し伸べ、彼が長い間苦しんでいた問題を解決されたのです(13節)。

しかし、この癒しの奇跡は、パリサイ人の願っていた罠に掛かることを意味しました。ですからこの出来事を契機に、パリサイ人はイエス様の殺害計画に大きく踏み出していったのです(14節)。

この出来事を通して、私たちが覚えるべきこと。それは私たち自身が新約の安息日である「主の日」をどのような心で過ごすかということです。形に捉われると、安息日の本来の精神である神への愛、隣人への愛が損なわれます。だからと言って、思い思いに過ごして良いわけではなく、イエス様の姿を模範として、神への愛、隣人への愛を表す日として正しく過ごす者でありたいと思います。

 
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