検見川聖書バプテスト教会
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  献身することの必要性  

2010年2月14日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:イザヤ書6章1〜8節

[1]ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、 [2]セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、 [3]互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」 [4]その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 [5]そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」 [6]すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 [7]彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 [8]私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

説教要旨

本日は、「献身」がテーマです。私たちキリスト者は、ただ漠然とした思いで信仰生活を送るのか、それとも神が自分に与えられた使命を明確に自覚し、その使命に応えるのか。このことについて、人生のある時点において「献身することの必要性」を覚えた預言者イザヤに注目して思い巡らしましょう。

〈献身とは〉
まず、献身とは何でしょうか。聖書における献身とは、「神の召命に応えて、神の御心のままに生きるべく、自らの意志を明け渡して、その身をささげること」(キリスト教辞典)と定義されています。特徴としては、誰かを助けるために、大きな犠牲を払うこと以上に、神の召命に応えるという点に強調点が置かれています。

この献身は「伝道献身」と「一般献身」に分けることができ、「伝道献身」は、何かの職業、立場から離れて、伝道者として神の家である教会、御言葉への奉仕に、その生涯をささげることです。また「一般献身」は、直接そのような働きに携わらないとしても、今自分が置かれている場にあって、神の御心に生きるべく、その身をささげることです。実に、教会の歴史において、このような献身した人々によって福音が語りつがれ、信仰は継承されてきたのです。

〈献身する必要性を覚えたイザヤ〉
では、イザヤはどのようにして献身する必要を覚えたのでしょうか。時代的状況として、人々の心が神に向いておらず、殆どの人が献身する必要を覚えない時代に生きていたことがあげられます(参照イザヤ書1章4〜7、23節)。神の民でありながら、自分の思いに従った信仰生活を多くの人々が送っていた中で、その影響を受けていたであろうイザヤは漠然とした思いで預言者として主に仕える日々を送っていたのかもしれません。

しかし、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」(1節)とあるように、彼は、ある時神殿において真の神の臨在を覚えたのです。神の臨在に触れたイザヤの心は主への恐れに満ち、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で・・・」(5節)と自分の罪汚れを深く自覚したと共に、「燃えさかる炭」によって罪赦される体験をしたのです(6〜7節)。

この直後、イザヤに主からの召しのことばが与えられました。「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」(8節a)この神の召しのことばを聞いたイザヤは、神の御わざのために自分を用いていただきたいという強い願いを持ってこう答えました。「ここに、わたしがおります。私を遣わしてください。」(8節)。このようにしてイザヤは自発的に、主の召しに応える者とされ献身したのです。

誰でも、深い罪の自覚と、その赦しの素晴らしさを体験するなら、主に用いられたいという強い願いが湧き出るのではないでしょうか。イザヤと同様に、私たちに対しても「誰を遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と主は語っておられます。私たちは、この招きにどのように応えるでしょうか。ただ黙って聞き過ごすのか、それとも自発的に応答をするのか、それは私たち次第です。

 
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