検見川聖書バプテスト教会
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  私にあるものを上げよう  

2010年2月7日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:使徒の働き3章1〜10節

[1]ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。 [2]すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。 [3]彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。 [4]ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。 [5]男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。 [6]すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、 [7]彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 [8]おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。 [9]人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。 [10]そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

説教要旨

私たちは人生を生きる中で、時として「自分の本当の必要がわからなくなる」ことがあります。今の自分に何が一番必要であるかよりも目先の必要を満たすことだけに関心が向いてしまうことは私たちにないでしょうか。本日の箇所には、そのような状態に陥っていた「生まれつき足のきかない男」が登場します。

〈本当の必要を知らないで生きていた男〉
当時の時代背景からして、彼を取り囲む環境は厳しいものがありました。それは、「生まれつき足がきかない」という重いハンディと共に、人々からの「施しを求め」るために「毎日『美しの門』という宮の門に置いてもらっていた」(2節)事実から明らかです。ハンディキャップがあるゆえに、仕事に就くことができず、他の人の助けを必要とする状況にあったのです。もしかすると、彼は自分の身の上を嘆き、宿命と受け止め、絶望していたかもかもしれません。

壮麗で輝きを放つ「美しの門」と、憐れな姿を人々にさらして気を引くこの「男」の姿が極めて対照的だと思います。このような彼が置かれていた境遇を思うときに、とても心が痛みます。しかし、客観的に見て言えるのは、この時の彼は現実的な必要である「施し」は求めていたが、彼の本当の必要をご存知である神様との関係を心から求めていなかったということです。

〈本当の必要を気づかせる使徒ペテロ〉
著者ルカは、そのような男に「本当の必要」を気づかせ、その必要を満たす働きをした人物がいたことを証言しています。それは、神殿に祈りをささげるために通りかかった使徒たちでした。その内の一人ペテロは「施しを求めた」この男に対して、「金銀は私にはない。」(6節)と公言したのです。「ない」とは、彼の期待に応えられないと言っているように受け取れますが、実はペテロはこう言うことによって、彼の本当の必要が「金銀」にはないことを気づかせようとしたのです。ですから、彼に根本的な解決を与えるために、「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの御名によって歩きなさい。」(6節)と命じたのです。

なぜ、このことばが、彼の本当の必要を満たすものであったのでしょうか。それは、「イエス・キリストの名」こそが、真の権威者であり、救い主として罪と死の問題を解決された唯一の「名」であるからです。このイエス・キリストは「その名」が呼ばれるところに臨在され、生きて働かれるお方なのです。ペテロはその事実を知っていたので、「この男」に対して、このように語ることができたのです。彼が本当に必要としていたのは、自分に同情する人々による物質的な援助ではなく、真の救い主であるお方と人格的に出会い、そのお方と共なる歩みをすることにあったのです。

〈この男に表れた変化〉
驚くことに、その直後、彼のこれまでの人生で何の役にも立たなかった「足とくるぶし」(7節)が強まり、自分の足で歩く者、神を賛美する者に変えられたのです(8節)。続く9〜10節には、足が回復した男の姿を見た群集たちの驚きの様子が描写されています。

以上のことから、私たちは、この出来事を通して、神は人間の本当の必要をご存知の方であり、その必要に気づかせ、「わたしにあるものを上げよう。」と、根本的な解決を与えて下さる方であるという幸いな事実を覚えるのです。

 
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