2010年1月24日(日) 礼拝説教要旨 |
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聖書箇所:マタイの福音書11章28〜30節 |
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[28]すべて、疲れた人。重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 [29]わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 [30]わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 |
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説教要旨 |
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本日は、聖書の中で最も慰めに溢れ、最も親しまれてきた御言葉を共に見ていきましょう。この御言葉から、ご自分を拒絶された人々を、イエス様がなお受け入れ、ご自分にある憩いの中に招こうとされている事実を知ることができます。 〈文脈から見えること−逆境の中での招き〉 なぜ、イエス様は、大勢の群集がご自分の教えに驚嘆した「山上の説教」(5〜7章)の後や、メシヤとしての権威をもって、10の奇跡(8〜9章)をなされた後のような、救い主として注目され、華々しい活躍をしている中で人々を招かなかったのか不思議です。そのような招きであれば、招かれる側はさほど抵抗を感じないばかりか、多くの人々が積極的にその招きに応えたことでしょう。しかし、この章の文脈から見えてくることは、拒絶された救い主による逆境の中での招きであるという事実です。 〈文脈を踏まえて本文からわかること〉 さらに、このイエス様の招きは、何か魂胆や思惑が込められているものではなく、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節b)とのことばから、ご自身が大きな犠牲を払って、人々の肉体的・精神的な必要を満たそうとする自己犠牲に基づく招きであったこともわかります。この呼びかけに応じる人には、真の救い主であるイエス様との個人的な関係が求められています。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(29節)。 具体的には、拒絶された救い主であるイエス様に安心して身を任せ、「わたしのくびきを負って、私から学ぶ」ことなのです。「わたしのくびき」とは、キリストの弟子となってそのことばに従って歩むこと、「わたしから学びなさい」とは、イエス様と共なる歩みの中でその人格に触れ、その生き様に倣うことを意味します。その結果、疲れ果てている「たましいに安らぎ」(29節)が与えられる、と約束されているのです。 当時の人々がこの招きにどう応えたのか、聖書は記していません。しかし、確かなこととして言えるのは、いつの時代にあっても、この招きに応える人は僅かであるという事実です。イエス様は、今の時代に生きる私たちにもこの御言葉をもって、招かれています。さて、私たちはこのイエス様の招きに素直に応じて憩いを得ているでしょうか。 |
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