検見川聖書バプテスト教会
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  挫折の中での神への祈り  

2010年1月17日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書11章25〜27節

[25]そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 [26]そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。 [27]すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

説教要旨

この箇所において著者マタイは、イエス様の祈りを紹介しています。祈りは祈る人の正直な姿を示すと言われます。本日は、私たちと同じ世界に身を置いてくださったイエス様の祈りを通して、その正直な姿に迫ってみたいと思います。

〈イエス様が直面していた現実〉
25節冒頭の「そのとき」は、ガリラヤの町々におけるイエス様の活動がほとんど成果を収めなかった直後の状況を示しています。すなわち、イエス様が伝道に挫折し、精神的に徒労感と虚脱感をもたらすような厳しい現実に直面していた「時」であったのです。これは、大抵の人であれば、活動への意欲が低下し、塞ぎ込んでしまう状況ではないでしょうか。

〈挫折した中での神への祈り〉
しかし、イエス様は神をほめたたえる祈りをささげられました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。・・・」(25〜27節)。まず、イエス様は、父なる神を全宇宙の創造者、支配者である「天地の主」と呼びかけ、ご自分がその「父」の御心に全面的に同意して従っていることを告白されたのです(※「ほめたたえ」とは、「全面的に同意する」の意)。自分の願う通りに物事が進まなくても、イエス様はその現実が神の主権の内にあると受け止めることができたのです。

驚くべき現実の捉え方だと思いますが、このことは、続く祈りのことばの中でも確認できます。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(25節b)「これらのこと」とは、イエス様の宣教によって明らかにされた真理、つまり“福音”のことです。この福音を受け入れる道を、自らを「賢い者」、「知恵のある者」と自認するこの世の知者に対して神は意図的に「隠して」、反対に、自らの無知を認めて、素直に教えを受け入れる「幼子たち」に対しては「現された」というのです。

すなわち、イエス様に対する人々の拒否反応は、高ぶる者に対して、真理の所在が見えないように、神がお隠しになった結果である。そこに神ご自身の意思が実現している。・・・このような信仰の確信は、「そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」(26節)と、ご自分が直面していた現実のすべてを、神のみこころとして受け止め、感謝する態度からも明らかです。

〈祈りに表されたイエス様の正直な姿〉
以上のことから、この祈りを通して、イエス様の正直なお姿が確認できると思います。それは、挫折を味わうような現実の中にあっても、神の絶対的な主権を認め、その御心に全面的に同意する点、また神のご意志は人間の側の判断や意図を超えて成されると信じる点、さらに、どのような現実であっても、それが「神のみこころにかなう」ならば素直に喜び、感謝する点において顕著です。厳しい現実の中でも生きた信仰を働かせる、それがこの祈りにおいて表されたイエス様の正直な姿なのです。

さて、私たちの祈りは、どのような姿を現しているでしょうか。どのような現実でも右往左往せず、神をほめたたえる祈りをささげる者でありたいと思います。

 
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