2010年1月10日(日) 礼拝説教要旨 |
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聖書箇所:マタイの福音書11章20〜24節 |
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[20]それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。 [21]「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 [22]しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。 [23]カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。 [24]しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」 |
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説教要旨 |
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本日の箇所では、イエス様の宣教の活動拠点であったガリラヤ湖周辺の町々からも拒絶されていたという事実が明らかにされています。ここでの強調点は、神の福音を拒絶することがいかに重大な結果を招くかということです。 〈神の特別な恵みを受けたガリラヤ地方〉 〈救い主を拒否したガリラヤの町々〉 また、自らの罪の問題を解決することよりも、現実の生活を優先させたのです(マタイ8章34節)。神が人となって、人間の抱える罪と死の問題を解決しようとわざわざ来てくださったにも関わらず、その救い主に対して心を閉ざしてしまったガリラヤの町々に住む人々。ここに私たちは、自分の罪の問題を解決する必要をなかなか覚えることのできない人間の愚かさを覚えるのではないでしょうか。 〈福音に触れる者に問われる責任〉 最後にこの箇所を通して、主の愛の深さ、強さに思いを巡らしましょう。さばきの宣告は、あくまでも人々の滅びを食い止めたいという主の愛に根差したものでありました。私たちは、主の厳しいことばに耳を塞ぐことなく、悔い改めの機会が与えられることを感謝しつつ、主の愛に応えていく者となりましょう。 |
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