検見川聖書バプテスト教会
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  悔い改めない町々を責める主  

2010年1月10日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書11章20〜24節

[20]それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。 [21]「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 [22]しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。 [23]カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。 [24]しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

説教要旨

本日の箇所では、イエス様の宣教の活動拠点であったガリラヤ湖周辺の町々からも拒絶されていたという事実が明らかにされています。ここでの強調点は、神の福音を拒絶することがいかに重大な結果を招くかということです。

〈神の特別な恵みを受けたガリラヤ地方〉
そもそもガリラヤ地方は、当時のユダヤにあって「異邦人の地」と呼ばれ、何の望みもない地域と蔑(さげす)まれていました(参照ヨハネ7章41、52節)。しかし、この地方に神は恵みの光を注がれたのです(イザヤ9章:1〜2節)。救い主としてイエス様は、三年半の公生涯の内、約二年もの長きにわたってガリラヤ湖周辺の町々「コラジン」、「ベツサイダ」、「カペナウム」等で活動されたのです。このガリラヤの町々でイエス様はご自身がメシヤであることを証明する「数々の力あるわざ」を行なわれました。このことは、ガリラヤの町々に住む人々が、旧約の信仰者たちが切望していたメシヤに直接会うという栄誉にあずかったこと、その教えと奇跡に直接触れるという特権にあずかったことを意味するのです。

〈救い主を拒否したガリラヤの町々〉
しかし、20節のイエス様のことばからわかるように、ガリラヤの町々はイエス様を拒否したのです。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた」(20節)。これらの町の人々が、イエス様というお方に興味を持ったのは確かです。だが、イエス様が語られたこと、なされた奇跡の目的である罪の「悔い改め」に進むことはほとんどなかったのです。彼らは、人間的な目でイエス様を見て躓きました(マタイ13章54〜57節)。

また、自らの罪の問題を解決することよりも、現実の生活を優先させたのです(マタイ8章34節)。神が人となって、人間の抱える罪と死の問題を解決しようとわざわざ来てくださったにも関わらず、その救い主に対して心を閉ざしてしまったガリラヤの町々に住む人々。ここに私たちは、自分の罪の問題を解決する必要をなかなか覚えることのできない人間の愚かさを覚えるのではないでしょうか。

〈福音に触れる者に問われる責任〉
続く21〜24節節でイエス様は、福音に触れる者の責任の大きさを教えておられます。神の特別な恵みにあずかっても、自分の罪を「悔い改める」ことがなければ、神を知らず、その欲望のままに罪を犯して生きている人々より「罰が重い」(22、24節)という事実を、イエス様は明らかにされたのです。福音を拒絶することは、自分の身に重大な結果を招くという事実を、神の恵みにあずかる全ての人々は正しく認識する必要があるのです。

最後にこの箇所を通して、主の愛の深さ、強さに思いを巡らしましょう。さばきの宣告は、あくまでも人々の滅びを食い止めたいという主の愛に根差したものでありました。私たちは、主の厳しいことばに耳を塞ぐことなく、悔い改めの機会が与えられることを感謝しつつ、主の愛に応えていく者となりましょう。

 
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