検見川聖書バプテスト教会
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  人の執り成しを引き出される主  

2010年1月1日(日) 元旦礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:創世記18章16〜21節

[16]その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。 [17]主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 [18]アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。 [19]わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」 [20]そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。 [21]わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

説教要旨

新しい年がスタートとしました。今年も私たちの歩みを導き、最善を与えてくださる主の御心に思いを巡らしつつ、御言葉を心に蓄えていきましょう。本日は「執り成し」をテーマにして、「人の執り成しを引き出される主」のみわざを見ていきたいと思います。

〈執り成す者の前提〉
まず、執り成す者にはどのような前提があるのでしょうか。不可欠な要素として挙げられるのは、自らの罪の問題を解決していることです。神の前に義と認められている体験がなければ、どんなに強く望んでも神と人との仲立ちをすることはできません。その点アブラハムは、唯一の神を信じ、従っていく歩みの中で、神の前に義と認められる体験をしています(創世記15章6節)。

次の要素としては、神の憐れみと真実さを知っていることです。主は人の側の不忠実さや弱さをご存知で、憐れみをかけてくださり、また一度約束を与えた人に対しては、最後まで真実なお方であります。このことを知り、心から感謝していなければ、隣人の救いを本気で祈る人にはなれないのです。この点においてもアブラハムは、信仰者の歩みの中で起した数々の失敗を通して、神の憐れみと真実さを実感していたのです(哀歌3章22節、詩篇103篇8〜14節)。

〈執り成す者へと変えられるアブラハム〉
このアブラハムに対して主は三つの事実を通して、彼の信仰を引き上げられました。

(1)彼がもはや神のさばきの対象ではない事実。16節で、アブラハムが主と共に、間もなくさばきが下されようとしている「ソドムを見おろす」場所に立っていたことは、そのことを示しています。この主の側に立つという位置は、神の前に義と認められた者でなければ決して立つことができない立場だからです。

(2)彼が神の救いのご計画の中で重要な役割を与えられている事実。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(17節)との主の独り言は、アブラハムを主がいかに大切に扱っているかを示しています。そして、続く18〜19節では、主がアブラハムを通して救いのご計画を実現しようとしておられることが語られているのです。

(3)主は何とかして赦したいと願っておられるという事実。審かれて然るべきソドムとゴモラ・・・そこからは不正や不道徳をなす者たちの横暴な態度を訴える正しい人の「叫び」が天にまで届き、神ご自身も「彼らの罪はきわめて重い」(20節)と判断するしかない厳しい状況がありました。しかし、主の御心の真意は、一人でも滅びることを望まないというものであったのです(IIペテロ3章9節)。「わたしは知りたいのだ」(21節)とのことばには、1つの町が審きに値する場合に、主はそのさばきをお急ぎになるのではなく、かえって寛容と忍耐をもって赦しの可能性を探ろうとしておられる主の深い愛と憐れみが込められているのです。

以上の点を通して、アブラハムは人を「執り成す」者へと変えられたのです(参照22〜33節)。現代においても主は人々の救いのためにキリスト者が「執り成す」者となることを期待されておられます。私たちもアブラハムと同じ立場を与えられているのですから、大いに主の期待に応えていこうではありませんか。

 
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