検見川聖書バプテスト教会
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  人のきまぐれさと主の嘆き  

2009年12月13日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書11章16〜19節

[16]この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、 [17]こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』 [18]ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、 [19]人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

説教要旨

私たち人間には、自分の思いどおりに周りを動かそうとする罪の性質があります。この性質はたちが悪く、自分の思い通りにならない相手に対しては容赦ない批判を向けるのです。本日の箇所では、神から遣わされたバプテスマのヨハネとイエス様が、そのような批判にさらされていた事実が示されています。

〈当時の人々のきまぐれさについての描写〉
イエス様は「この時代は何にたとえたらよいでしょう」(16節)と、当時の人々の姿を、「市場」で親が買い物している間に、遊びに興じようとする子ども達に例えられておられます。この子ども達は、近くにいる他の子ども達が楽しい笛の音に合わせて踊り出し、輪の中に入ってくれるのを期待しながら、「呼びかけ」(16節)ます。ところが「踊らなかった」。それならばと、今度は逆に悲しみを表す「弔いの歌」を歌います。

だが、結果は同じで、彼らが期待する通りの反応を、他の子どもたちはしてくれなかったのです(17節)。・・・この例えから明らかなように、子どもという存在は、楽しく遊びたいという理由で、自分の期待通りに周りを動かそうと様々な手段を講じます。具体的には、仲良くなりたいと思っている子の前で、面白いことを言ったり、優しくしてみたり、あるいはそっけない態度をとったり、怒らせたりするのです。しかし、周りが期待通りに動かないと、不機嫌になって、そっぽを向いたり、悪口を言ったりと、極めて自分中心の気まぐれな態度を取るのです。

〈この描写が示している具体的事例〉
この例えが具体的に何を指しているのか、続く18〜19節で説明されています。当時の人々は、自分たちと同じように、「食べも飲みもしない」で荒野にて禁欲的な生活を送っていたバプテスマのヨハネに対しては、『あれは悪霊につかれているのだ。』と非難し、また自分たちが差別して付き合いをしていなかった罪人たちの宴会に出席していたイエス様に対しては、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。」とやはり非難したのです。

どちらにしても非難していたのが当時の人々であったのです。そこには自分たちの思いどおり、期待通りの行動を取らなければ、反発心を持って批判するという、当時の人々の身勝手さ、気ままさが表されているのです。彼らの大きな誤りは、子どもの身勝手さを信仰の世界に持ち込んだことにあります。それゆえ、神が人々の救いのために遣わしてくださった先駆者ヨハネとメシヤであるイエス様を、正しく理解し、受け入れることが出来なかったのです。

最後にイエス様は「でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(19節)と語られました。イエス様は、自らを非難する人たちに抗議したりせず、結果において自らの正しさは証明されると言われたのです。このイエス様の潔い態度は私たちの模範です。もし私たちが周囲の評価をいちいち気にしていたら、主の働きに集中することはできないでしょう。大切なのは、主が自分を遣わされている自覚と使命をしっかり持ち、確信をもって主に仕えていくことなのです。

 
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