検見川聖書バプテスト教会
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  喜びの訪れを聞いたザカリヤ  

2009年12月6日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書1章5〜25節

[5]ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。 [6]ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。 [7]エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。 [8]さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、 [9]祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。 [10]彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。 [11]ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。 [12]これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、 [13]御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。 [14]その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。 [15]彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、 [16]そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。 [17]彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」 [18]そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」 [19]御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。 [20]ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」 [21]人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。 [22]やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。 [23]やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。 [24]その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。 [25]「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

説教要旨

ルカ福音書の降誕記事には、バプテスマのヨハネの誕生の経緯が記されています。本日は、このヨハネ誕生の御告げを受けた父ザカリヤを通して、神の御言葉に対して、柔軟な姿勢を持ち続けることの大切さを見ていきましょう。

〈ザカリヤという人〉
このザカリヤは、「アビヤの組の者で・・・祭司」(5節)とあるように、恵まれた生い立ちでありました。「祭司」とは、大祭司アロンの子孫のみに許された職業です。さらに、妻のエリサベツも「アロンの子孫」であったということは、夫婦ともに特別な家柄の出であったことが示されています。このザカリヤ夫妻は信仰に生きた人でした。「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(6節)

彼らは当時、世俗的になりつつあったユダヤ社会の風潮に流されることなく、神のことばを土台として正しく生きた信仰者であったのです。しかし、続く7節には、この夫婦に大きな悩みがあったことが記されています。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(7節)この夫婦は自分たちの力ではどうすることも出来ない程に大きな悩みを現実の生活の中で抱えていたのです。

〈ザカリヤに告げられた喜びのおとずれ〉
このようなザカリヤに神は「主の使い」を通して、特別なメッセージを告げられました。それは、彼が祭司として「自分の組が当番」(8節)であった期間中に、「主の神殿にはいって香をたく」(9節)という一生に一度あるかないかの特別な状況で起こった突然の出来事でした。13〜17節に「主の使い」による喜びの知らせが記されています。

要点は、(1)妻エリサベツが男の子を産む、(2)その子はイスラエルの多くの人々を神のもとに立ち返らせる、(3)まことの救い主の先駆者としてその道備えをする、ということです。ザカリヤにとってこの知らせが、「喜び」をもたらすものであったことは間違いありません。個人的に言えば、長年祈り続けてきた“子が与えられる”ことであり、ユダヤ民族の一員としては、生まれる我が子がメシヤの道備えをする働きをするということは、すなわち待望のメシヤが誕生する時が迫っていることを意味していたからです。

〈ザカリヤのとった反応〉
ザカリヤは「主の使い」のことばに、どのような反応をしたのでしょうか。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」(18節)この彼の答えは、およそ神が期待しておられた答えとは程遠いものでした。彼は、神の御言葉を素直に信じることをせず、自分を取り巻く厳しい現実を理由に、こともあろうか目に見える“しるし”を要求したのです。

この彼の反応には、神のなさることに対する期待は見られず、厳しい現実に対するあきらめしかなかったのです。このことから、ザカリヤの信仰が神の御言葉に対して柔軟性を欠いていた事実が明らかにされています。このような状態は、長年忠実な信仰を続けている人が陥りやすい精神的老化現象と呼ぶことができるでしょう。

厳しい現実に対するあきらめ、自分の考えへの固執があるとき、私たちもまたザカリヤのような態度を取ってしまうことを忘れないようにしたいと思います。

 
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