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  派遣説教(4)−自分の十字架を負って従う  

2009年10月11日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書10章34〜39節

[34]わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 [35]なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。 [36]さらに、家族の者がその人の敵となります。 [37]わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘たちを愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 [38]自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 [39]自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

説教要旨

使徒とされた12弟子に対する派遣の説教。本日は第四区分です。イエス様はこの箇所において、弟子たちが自分にとって最も大切なものを捨ててでも主に従うことを求めておられます。

〈キリスト来臨の目的〉
まず、34節において、「わたしが来たのは」と、ご自分がこの世に来られた目的を明らかにされています。弟子たちは、イエス様が「地に平和をもたらすため」(34節a)に来られたと考えていました。しかし、イエス様は「・・・だと思ってはなりません。」と、その考えを真っ向から否定されたのみか、「剣をもたらすために来た」(34節b)と弟子たちが思わず耳を疑うようなことを言われたのです。

この過激で暴力的に思える「剣」とは、実際の武器や暴力のことではなく、「御霊の与える剣である神のことば」(エペソ6章1節)を指します。それゆえ、35、36節において、「わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(35、36節)と言われている家族間の不和や対立は、キリストの弟子が神のことばに従って生きるときに必然的に引き起こされることなのです。

この「神のことば」という剣は、人の心の内にある虚偽や不正、悪を暴き、罪を指摘することになるので、人々から怒りや憎しみ、敵意を向けられることになるのです。そのような意味で、キリストの弟子とされた者は、弟子として生きる上で、そのような大きな犠牲を払うことを覚悟する必要があったのです。

〈自分の十字架を負って従う〉
ですから、イエス様の弟子たちは、遣わされて行くに当って、自分が最も大切にしているものをささげる必要があるのです。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(38節)弟子たちの中には、イエス様に従う歩みを自分の願いを実現させるための手段と考えていた者もいました(参照マルコ9章34節)。だが、イエス様はそのように「自分の願い」を握り締めることを止め、神のみこころを行うための器として、自分自身の全てを神に明け渡して、「自分の十字架を負って従う」ことを求められたのです。

このことは、キリスト者自身が自分に死ななければできないことです。一見すると払う犠牲ばかりが多くて損をするような印象を持ちます。ところが、私たちが自分の手の中に握り締めているものを手放す時、それは失うことではなく、得ることにつながるという逆説的な真理が39節において明らかにされています。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(39節)

確かに主の弟子として生きる者が払う犠牲は大きいものがあります。そのための覚悟も求められます。ですが、それは結果的に主の弟子とされた者に極めて大きな祝福をもたらすことになるという重要な事実を私たちは教えられるのです。そして「自分の十字架を負って従う」歩みへと一歩踏み出す者となりましょう!

 
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