検見川聖書バプテスト教会
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  神の時と人の時  

2009年8月9日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:創世記16章1〜6節

[1]アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。 [2]サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライのことを聞き入れた。 [3]アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。 [4]彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。 [5]そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。 [6]アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

説教要旨

神の約束と人間の期待には少なからずギャップがあります。このようなギャップを覚える時、信仰者は神の約束をどのように受け止めるべきなのでしょうか。

<アブラハム家の家庭事情>
1節の冒頭に「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。」とありますように、この夫婦には、「子どもが与えられる」という、神の約束と正反対の現実があったことがわかります。そもそも、二人が住み慣れた故郷カランを離れて未知の土地であるカナンに来たのは神の約束を信じる信仰によっていたのは周知のことです。

しかし、この時、アブラムは85歳、妻サライは75歳でした。夫婦ともに老いを実感し、もはや神の約束を気長に待てる年齢ではないという状況にあって、おそらく、妻サライには、不妊の女としての恥の感情(参照:創世記30章1節)があり、なかなか約束を果たされない神に対する苛立ちや不満が募っていたと思われます。

<妻サラの提案>
このような現実の中、サライは夫アブラムにある提案をしたのです。それは、女奴隷の胎を借りて子を産むというものでした。これは、当時の一般的な社会習慣を背景としたもので、女奴隷が妻の「ひざの上に子を産む」(創世記30:5参照)ことによって、妻自身の腹の子と同じとみなされたのです。サライは、自分たち夫婦の問題を解決するために、こうするより仕方ないと考えたのです。それは、この提案を受け入れた夫アブラムも同じでした(3節b)。

<その結果起こった悲劇>
サライの計画とアブラムの協力により、アブラムの子がハガルに宿りました(4節)。このハガルの妊娠は、この一家に喜びや幸福をもたらすはずでした。しかし、実際には、高慢、嫉妬、憎しみをもたらしたのです。「彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。」(4節)昨日まで忠実に仕えていたハガルがとった予期せぬ態度は、サライの嫉妬心に火を点けました。

サライは、「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです」(5節)と、夫アブラムに非難を浴びせます。サライは幾分混乱してしまっていたのかもしれません。思わぬ悶着に驚いたのはアブラムです。今更後戻りもできず、子が出来てしまった今どうしたら良いか悩んだ挙げ句、アブラムは、「ご覧。あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」(6節)と、解決をサライに任せてしまったのです。

家庭内の問題を解決せず、面倒なもめごとには自分は関わりたくないと放り投げてしまう無責任な態度がここに見られます。このアブラハムの責任放棄の結果、サライがハガルを苛め、そしてハガルが家出するという何とも最悪の結末を迎えることになったのです。

以上のことから、神の時を待たず、人間的な知恵によって、神の約束を実現させる結果が、悲惨なものであることがわかります。私たちはこの箇所を教訓として、神は約束を必ず実現されるお方であり、その約束は神の御心の方法と時において成されるということを深く心に留める者でありたいと思います。

 
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