検見川聖書バプテスト教会
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  今を感謝して生きる  

2009年8月2日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:IIコリント12章7〜10節

[7]また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 [8]このことについては、これを私から取り去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 [9]しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 [10]ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

説教要旨

今年の検見川教会の年間目標は「今を感謝して生きる」です。私たちの人生は自分の思い通りにならないことがあまりに多いので、なかなか「今」を肯定したり、感謝することが難しいと思います。本日の箇所では、伝道者パウロが、かつて自分もそのような思いに捕らわれていたことがあると告白しています。パウロほどの信仰者に、どのような問題があったのでしょうか。見ていきましょう。

<今を感謝できないでいたパウロ>
それは「肉体のとげ」(7節)であったと記されています。この「肉体のとげ」が具体的に何を指していたかは不明ですが、何かしらの身体的な病気(有力な説として悪性の眼病、マラリヤ熱)と考えられています。何にせよ、この「肉体のとげ」が、パウロの心身に大きな苦痛をもたらし、彼の伝道の働きを大きく妨げるものであったのは確かです。それゆえ、パウロは神に、「これを私から去らせてください」(8節)と、心から祈ったのです。「三度も願った」という表現は、ゲッセマネの園で苦しみ悶えながら祈られたイエス様の祈りを思い起こさせます(参照−マタイ26章)。

<パウロに示された神のみこころ>
このパウロの願いは、決して利己的なものではなく、“神の働きのため”という純粋な動機によるものであったのです。ですから、パウロは願ったとおりに応えられることを期待していたはずです。しかし、彼の祈りに対する神の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である」という意外なものでした。パウロは、「肉体のとげ」を「去らせてください」と願ったわけですが、神は「その必要はない」、「今のままが最善である」と答えられたのです。どうして、痛みが依然として続いている中で、「恵みは十分」と神は言われるのでしょうか。理解に苦しむことばです。誰にとっても「弱さ」とは、弱点以外の何ものでもありません。多くの人にとって、弱さは否定的な要因だと思われています。

しかし、神様は人の弱さを全く別の視点からご覧になるお方であることがここではっきりと示されているのです。なぜ、そのように捉えることができるのでしょうか。それは、9節の続きのことばで、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるから」と説明されているからです。パウロが除去を願う「肉体のとげ」そのものが、神の力が十分に発揮されるための舞台となる、という驚くべき真理。この真理に人が気づかされていくときに、弱さに対する捉え方は劇的に変わっていくのです。もはや弱さは否定的なものではなくなります。むしろ自分に弱さがあるからこそ、「神の恵みが十分であること」を確認できる。そして、この弱さを通して、神のご栄光が表されていくと喜ぶことができるようになるのです。

さて、私たちは自分が抱えている様々な弱さに対して、どのような捉え方をしているでしょうか。否定的に捉えることは益につながりません。私たちは、神が目的を持って自分に与えてくださった弱さを素直に感謝し、その弱さを通してしか表すことができない神の力があることを心から喜ぶ者でありたいと思います。

 
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