検見川聖書バプテスト教会
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  主がご覧になった人々の有様  

2009年7月19日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書9章35〜36節

[35]それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。 [36]また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

説教要旨

イエス・キリストは何のために私たちの住むこの地上に来られたのでしょうか。それは、神と私たち人間との間に横たわる障壁(バリア)を除去するためでした。その障壁とは私たち人間が持つ罪の性質であり、創造主なる神を認めようとしない心です。そのような私たちを罪の滅びから救うために、この地上に来てくださったイエス様は、ご自分がこれから十字架に架かって救おうとする人々の置かれている現実をつぶさにご覧になりました。

罪の支配する世にあって、人々が苦しみ悩んでいるのはどのような問題によるのか。おそらく、そのような思いを持ってイエス様は不治の病に苦しみ、誰からの助けも得られない人々に、実際に助けの手を差し伸べたのです。本日の箇所は、そのような人々との関わりを通して、イエス様がご覧になった当時の人々の有様について記されています。

<羊飼いのない羊のようである>
イエス様がご覧になった人々の有様は「羊飼いのない羊のよう」(36節)というものでした。このことばは群れの導き手である牧者を失った羊の姿を表しています。なぜ、イエス様はこのような表現を用いられたのでしょうか。その理由は、イエス様がご覧になった人々の有様があまりに悲惨であったからです。

数多くの動物の中で羊ほど傷つきやすく、迷いやすいものはないと言われています。それにも関わらず、羊は自分の考えに固執しやすい割に、外敵に対しては全くと言っていいほど無防備なのです。一方で羊飼いは、そのような羊が群れから迷いだすことがないように常に見守り、餌を供給する牧場に導き、羊を狙う野獣から群れを守る働きをするのです。ですから、羊はいつも自分たちを導き、守ってくれる羊飼いがいて始めて安心して暮らすことができるのです。

以上のことを踏まえて考えると、「羊飼いのない羊」は、まことに悲惨です。常に死の危険にさらされ、生きた心地がしない中で、飢えと渇きに苦しみ、自分がどこに行けば良いのかわからなくなってしまうのです。イエス様がご覧になったガリラヤの人々の有様は、まさにこのことばの通りであったのです。

<なぜ、羊飼いがいなかったのか>
では、当時のユダヤにあって民衆の羊飼いと言うべき指導者は不在だったのでしょうか。否、表面的には政治上の指導者である国主ヘロデ・アンティパスや、信仰上の指導者である律法学者やパリサイ人たちがいたのです。しかし、彼らは自分たちの利得を貪り、群れの羊であるはずの民衆たちの抱えている必要に応えるという羊飼いとしての本分を果たしていなかったのです(参照:エゼキエル34章1〜6節)。

このような悲惨な現実に生きる人々をご覧になったイエス様は、「かわいそうに思われた」とある通り、心を痛められました。「かわいそうに」とは、原語では内臓がよじれるような心痛を意味します。聖書の中で最も烈しく、積極的な助けの手を差し伸ばさずにおられないほどの憐れみです。この憐れみこそが、イエス様の宣教の原点であることを、この箇所から私たちは覚えることが出来るのです。

 
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