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  いのちを回復させる権威者(2)  

2009年6月21日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書9章18〜26節

[18]イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」 [19]イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。 [20]すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。 [21]「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。 [22]イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。 [23]イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群集を見て、 [24]言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。 [25]イエスは群集を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 [26]このうわさはその地方全体に広まった。

説教要旨

本日は前回の箇所(18〜22節)の続きです。ここでは、イエス様が死んだ状態の人に対しても、そのいのちを回復させる権威者であることが明らかにされています。

<騒然としていた会堂管理者の家>
長血をわずらう女性の癒しをされた後、会堂管理者の家に来られたイエス様は、彼の家が騒然としている様子をご覧になりました(23節)。並行記事のマルコには、「人々が取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になった。」(マルコ5章38節)と記されています。会堂管理者の娘の死という出来事は、娘の家族のみならず、この家族を取り巻いていた周囲の人々にも大きな悲しみと嘆きをもたらしていたのです。

<死んだ娘に対するイエス様の見解>
このような状況の中に来られたイエス様は、「あちらに行きなさい」(24節)と、騒ぎ立てている人々に退去するように命じられた後、死んだ会堂管理者の娘に対するご自身の見解を述べられました。この時のイエス様のことばは、その場に居合わせた人々にとって全く思いがけないことばであったのです。「その子は死んだのではない。眠っているのです。」(24節)

驚くことに、人々が間違いなく死んだと見なしていた娘の状態を、イエス様は眠りの状態と見なされたのです。このことばには、死とはあたかも眠りのごときもので、再び起き上がることにつながっているという考えが示されています。人が死んだ状態に対して、このように言う人は聞いたことがありません。当然、会堂管理者の家にいた人々は、このイエス様のおことばを愚かな人が言うことばとして「あざ笑った」のです。居合わせた人々にしてみれば、イエス様の言っていることは、現実を知らない人のたわごとにしか思えなかったということです。

<イエス様の権威によるいのちの回復>
さて、イエス様はご自分のことばに期待しない「群衆」を相手にせず、「外に追い出し」て、ご自分の見解がその通りであることを実証されたのです。イエス様は会堂管理者の家にお入りになり、すでに死んで冷たくなっている「少女の手(死体は律法によれば汚れていた)」を強く握り締めたのです。この瞬間、普通では絶対に起こりえないことが起こりました。驚くことに「死んだ少女は起き上がった」と著者マタイは描写しています。

何から起き上がったのか、それは彼女が死んで寝かされていた寝床からです。なぜ起き上がることができたのか、それは、少女が死んだ状態から生き返ったからに他なりません。26節では、このイエス様が少女を生き返らせたという前代未聞の出来事が周囲にどれくらいの衝撃を与えたかが記されています。

この出来事が、私たちに示している霊的事柄を最後に汲み取りましょう。それは、肉体のいのちを回復させるイエス様は、罪によって霊的に死んだ状態の私たちのいのちをも回復させることが出来るということです。イエス様の十字架の死と復活の意味は、まさにそこにあるのだと断言できます。

 
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