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  主イエスの逮捕〜神の御心を見極めた人の強さ  

2009年4月12日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書22章47〜53節

[47]イエスがまだ話をしておられるとき、群集がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。 [48]だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。 [49]イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか。」と言った。 [50]そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。 [51]するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。 [52]そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。 [53]あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」

説教要旨

本日は、イエス様の逮捕という出来事を通して、神の御心を見極めた人の強さについてみていきたいと思います。出来事の流れとしては、十字架に架けられる前の晩、イエス様がゲッセマネの園で祈りをされた直後です。

<神の御心を見極めた人は、裏切り者さえも愛する心を持つ>
まず冒頭の47節を見てすぐわかることは弟子ユダの裏切りがあったという事実です。この時、ユダがイエス様を確実に「引き渡す」ための合図としたのは、親愛のしるしである「口づけ(原意は「愛する」)」でありました。敵の側に立つユダに対してイエス様は、「ユダ。口づけで、人の子を裏切るのか。」(48節)と言われました。

イエス様は自分を裏切ったユダを呪ったり、責めたりしないで、ただ彼の矛盾を指摘されたのです。態度では親愛を見せているが、実際の行動は師であるイエス様を敵の手に売り渡すという矛盾。このように言うことで、イエス様はユダが自分の罪に気付き、悔い改めることができるよう機会を与えたのです。敵に対しても、なお憐れもうとする神の御心を見極めた人の愛の強さがここに現れています。

<神の御心を見極めた人は不必要な争いをしない>
この時、ユダ以外の弟子たちは、イエス様の身に危険が迫っていることを察知し、「主よ。剣で撃ちましょうか。」(49節)と応戦することを願い出ました。そして「そのうちのある者」は、イエス様の答えを待たずに、敵に「撃ってかかり」傷を負わせたのです。何としてもイエス様の逮捕を阻止しようとする弟子たちの熱心さと勇敢さが表れていると思います。

しかし、このような自分を守ろうと剣を持つ弟子に対してイエス様は、「やめなさい。それまで。」(51節)と、剣を収めるよう命じたのです。こう言われた弟子の驚く顔が目に浮かびます。不必要な争いは憎しみや反感を生み出すだけであることをイエス様は知っていたのです。剣を抜くような相手に対しても、積極的に平和を作ろうとする神の御心に生きる人の強さがここにも現れています。

<神の御心を見極めた人は人を恐れない>
続く52〜53節で、自分を捕まえに来た民の指導者たちに対してイエス様は、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやってきたのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出ししなかった。」と、言われました。これは非難のことばです。しかし、一般的に考えて、逮捕の瞬間を迎えている人が、このようなことばを発することはあり得ません。逮捕されるということは、人が最も怯える瞬間です。しかし、イエス様はそのような状況にあって、まるでその場の主導権を握っている人のように堂々とされているのです。神の御心を見極める人は、神との揺るぎない関係を確信できるので、人を恐れず堂々とすることができるのです。

以上、イエス様の逮捕を通して、神の御心を見極める人の強さについて見てきました。この強さは、神の御心を見極めようとする私たちにも同様に与えられるものです。そのようなことからも、神に自分を明け渡す人は真に幸いなのです。

 
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