検見川聖書バプテスト教会
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  医者を必要とするのは・・・  

2009年3月22日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書9章10〜13節

[10]イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。 [11]すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」 [12]イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 [13]『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

説教要旨

本日は、イエス様がマタイの家で、当時汚れた者と見なされていた「収税人や罪人たち」と食事をしている場面での出来事です。当時の人々の感覚では、イエス様の行動は常識を逸しているように見えたわけですが(11節)、その彼らに対してイエス様は三つのことばを通して、そうではないことを証言されています。

第一のことば:「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。」(12節)丈夫な人、健康な人は医者を必要としないという、誰でもが理解できる常識的な例をイエス様は挙げられました。また、医者を必要としてない人として、病気ではあるがその病気に気づいていない人、あるいは、医者を必要とするほど自分の病気は深刻でないと考えている人もイエス様は念頭に置いていたと思われます。

第二のことば:「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か行って学んできなさい。」(13節a)これは、ホセア書6章6節からの引用です。「いけにえ」とは、神に対してささげられる外面的な行為を表しています。今日の教会では、奉仕や礼拝出席、伝道や献金が「いけにえ」に該当すると思います。一方で「あわれみ」とは、イエス様がされていたように罪人の友となることです。ここでイエス様は、「いけにえ」より「あわれみ」の方が重要だということを彼らに教えておられます。ただ自らの「正しさ」「きよさ」だけを追求し、「罪人」を「あわれむ」こと、「愛する」ことをしないパリサイ人たち。もし、神のあわれみによって生かされているという自覚があったなら、「罪人」たちを批判したり、忌み嫌ったりすることはできないはずです。それゆえ、「どういう意味か、行って学んできなさい。」(13節)とイエス様から言われたとおり、神の教えの初歩を学ぶことがパリサイ人たちには必要だったのです。

第三のことば:「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(13節b)この「罪人」には、実はパリサイ人をはじめとするすべての人が含まれています。事実、パリサイ人ほど重病人、手の焼ける病人はいなかったのです。しかし、彼らがその罪深さに気づいていないことこそ、最も深刻な問題でした。イエス様は、自分がこの世に来たのは、自分の「正しさ」に自己満足している人々を招くためにではなく、むしろ、自分の罪を知り、悲しんでいる者たちに救いの手を差し伸べるためであることをここで明らかにされたのです。

さて、私たちは、神の教えに熱心であろうとする余り、「自分の正しさ」に自己満足し、他者の弱さに共感する姿勢に欠けることはないでしょうか。残念なことに、パリサイ人たちは、自分たちこそがイエス・キリストという医者を必要とする者であることを最後まで認められなかったのです。もし私たちの中に、自己義認・他者否定の過ちに陥っている人がいるならば、今一度キリストのあわれみによって、生かされていること、赦されていることを深く心に刻み込み、悔い改めて、他者へのあわれみを実践していく者になろうではありませんか。

 
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