検見川聖書バプテスト教会
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  義とされた人は?  

2009年3月1日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書18章9〜14節

[9]自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 [10]「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 [11]パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 [12]私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 [13]ところが、酒税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 [14]あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

説教要旨

イエス様はこのたとえを「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」(18章9節)語られました。当時のユダヤ人たちは、人が神の戒めを守ることにより「義」と認められると考えていました。一方、神の国において、「義」とされるのはどのような人かをイエス様はここで明らかにされています。

まず、対照的な二人の人物が登場します。「ふたりの人が祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。」(10節)「パリサイ人」とは、ユダヤ教において厳格に律法を守る人々を指します。この人々にとっては、十戒に代表される戒めを守れない罪人や、占領軍ローマに協力し、同胞から法外な税を取り立て、さらにそれを横領着服するような取税人は軽蔑すべき悪人であったのです。パイサイ人はそうした罪人、取税人とは離れて生き、自分は信仰的にも社会的にも正しい人間であると確信していたのです。

11、12節においてこのパリサイ人が祈りをささげています。パリサイ人は「神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。」と祈ります。自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下しているパリサイ人のこの「私は〜ではないことを感謝します。」との祈りは、いかに彼が他人の外側のみを見て、その人々を否定しながら、自分の過ちに全く気付いていないことを露呈しています。続けて彼は「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を捧げております。」と祈ります。彼は自分の功徳を並べ、正しい行いによる義を誇っているのです。

13節においてはそのパリサイ人から見下された取税人が祈りをささげています。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様。こんな罪人の私をあわれんでください。』」と。この取税人の祈りは、祈りとも呼べないような、悲壮な叫びです。しかし、よく見ますと、取税人は「ほかの人々」に目を向けてはいません。神に見られている自分を見る彼は、そこに「罪人の私」しか発見できないのです。彼は神の御前にも、社会の基準でも自他共に認める罪人以外の何者でもあり得ません。そこには自分自身に対する絶望しか見出せなかったのです。それゆえ彼は、聖なる義の神にただ「あわれんでください」と言うほかなかったのです。

このたとえの結論としてイエス様は、「あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」(13節)と言われました。自分のありのままの汚れた姿を知り、神の御前に有罪であることを認め、その赦しを願って、ただ憐れみを請うしかなかった取税人の祈りが聞かれ、彼は「義と認められ、家に帰った」のです。逆に、自分は正しい人間だと自惚れ、自らを誇り、醜い自己義認を誇ったパリサイ人は神の前に義と認められなかったのです。私たちはパリサイ人のような過ちに陥ることのないように注意し、「胸をたたき」、ただ「私を哀れんでください」と祈る者でありたいと思います。

 
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