検見川聖書バプテスト教会
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  ナアマン将軍の悩み  

2009年2月1日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:II列王記5章1〜14節

[1]アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士であったが、らい病にかかっていた。 [2]アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、 [3]その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」 [4]それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。 [5]アラムの王は言った。「言って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。 [6]彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」 [7]イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」 [8]神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 [9]こうしてナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入り口に立った。 [10]エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」 [11]しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。 [12]ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして彼は怒って帰途についた。 [13]そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」 [14]そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

説教要旨

私たちは誰でも、多かれ少なかれ「悩み」を抱えて生きています。本日は、極めて深刻な病を患っていた将軍ナアマンの悩みを通して、私たちが本当に解決しなければならない悩み(罪と死)の解決について共に考えていきましょう。

<ナアマン将軍の悩み>
まず、ナアマン将軍はどのような悩みを抱えていたのでしょうか。それは「らい病(皮膚病)」であったと記されています(1節)。この病は、肉体的にも精神的にも大きな苦痛をもたらすものでした。しかも、この病は、回復するどころか悪化するという特徴がありましたので、らい病を患っている人からすれば、どんなに大きな犠牲を払ってでも解決したいと切望するものだったのです。しかし、残念なことに彼は様々な手を尽くせば尽くす程に、病を克服することは不可能であるという悲しい現実に直面したのです。これほどに深刻な悩みは、そうあるものではないと思います。ナアマン将軍にとって、生きていることは決して幸せではなく、深い絶望と痛みの連続であったのです。

<ナアマン将軍にもたらされた福音>
そのようなナアマン将軍にある時、福音(良き知らせ)がもたらされました。それは、隣国イスラエルにいる「預言者」のところに行けば「きっと」治ると言うものでした。病の癒しを切望していたナアマン将軍でしたから、早速王様に紹介状を書いてもらい、預言者であるエリシャのもとに行くことにしたのです。らい病がようやく治るかもしれないと、期待に胸膨らませてエリシャの家に到着したナアマン将軍の姿が目に浮かびます。

<エリシャが提示した解決法とナアマン将軍の反応>
しかし、そこで彼を待ちうけていたのは、全くの期待はずれの対応と指示だったのです。10節を見ると、預言者エリシャがナアマンに提示した解決法は、簡単ではあるが馬鹿げた方法でした。ナアマンはエリシャへの贈り物と王の紹介状、そして馬と戦車を引き連れて、隣国の将軍という立場にふさわしい到着をしました。ところが、エリシャは自分から出迎えて彼を歓迎することをせず、ただ使いの者の伝言だけで「ヨルダン川に行って七たび身を洗いなさい。」(10節)と指示をしたのです。丁寧に迎えられることを期待していたナアマン(11〜12節参照)は、このエリシャの失礼な態度に、腹を立て「怒って去」りました。勇者として王からの特別待遇を受けてきたナアマンにとっては、自分が軽く扱われることはプライドを傷つけられ、耐えられないことだったのです。自分のあるがままを認められないプライドこそが、ナアマン将軍にとって、らい病よりも取り除く必要性が高いものだったことが示されています。

さて、私たちの罪と死の解決ということにおいても、自分の都合やプライドが妨げとなり、神様の御声に素直に聞き従えないことがあります。神様がすでに救いの方法を備えてくださっているにも関わらず、受け入れられないということはないでしょうか。自分のプライドや都合を脱ぎ捨てて、主の前にへりくだり、素直に御言葉に従うということ、これこそが罪と死の解決に不可欠なことなのです。

 
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