検見川聖書バプテスト教会
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  狭い門から入る  

2008年11月9日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書7章13〜14節

[13]狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 [14]いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

説教要旨

山上の説教はいよいよ終盤に入ります。本日の箇所は、一般的にもポピュラーな「狭き門」の話を通して、神に喜ばれる人生の選択とは何かについて見ていきたいと思います。

<まず言える二つの前提>
この「狭い門から入りなさい。」とのことばについて二つの前提があります。第一に、イエス様は山上の説教を語るに際して、単なる知識や教養、ためになる良い話しはされなかったということです。二つの「門」のどちらから入るか、聞く人々には決断することが迫られているのです。第二に、このことばには、私たち人間の自由意思を侵害する意図はない、ということです。一見すると「狭い門から入りなさい」とは、私たちの意思を無視した他人の一方的な指示のようにも思えます。しかし、誤解してはならないのは、イエス様は私たちの自由意志を無視しておられないということです。むしろ、私たちが明らかに破滅に向かう選択をしようとしている状況の中で、親が子を愛する思いから、その道には進んではいけない、と注意を呼びかけていることばとして理解すべきなのです。あくまで、イエス様は心から私たちのことを心配しておられるのです。

<「狭い門」とは>
それでは、私たちが自らの決断で選択すべき「狭い門」とは何を意味するのでしょうか。それは、人生の重要な選択をする際に、自分の願いを基準とするのではなく、「神の国とその義とを第一」とすることだと言えます。そのような基準で選択する入り口は確かに窮屈に思えるでしょう。自分の願いやプライド、様々な欲望を持ったままでは、決して選び取ることができないからです。神の前に身をかがめ、遜る姿勢も求められます。しかも、14節には「その道は狭い」とありますので、「狭い門」から続く道は、実際的な困難や苦労が伴うのです。多数の人と違うことをするため、人から理解してもらえない寂しさや孤独、時には「何故自分だけが」と辛さも覚えるはずです。

しかし、この道は常にイエス様が共に居て下さるので、不思議と平安に満たされた歩みとなるのです(詩篇23篇4節)。余ほど注意していなければ見出せない、この「狭い門」を選択した人のみが、永遠の「いのちに至る」と、イエス様は断言されています。

<「大きな門」とは>
一方で、そこに足を踏み入れてはいけない「大きな門」とは何を指すのでしょうか。簡単に言えば、神の御心を無視した人生を選択することです。この門から続く道は「広い」とありますので、すべてがうまくいくように見えるのです。しかも、大勢の人がそこに入っていくので、ためらわずに入っていけます。そこにはみんなと一緒という安心感があるのです。しかし、見落としてはならない点は、その道の行き着く先は、神のさばきの結果受ける「滅び」であるということです。

最後に、私たちはこのイエス様の「狭い門から入りなさい」との勧めに対して、どのような決断をするでしょうか。これは一人ひとりに問われていることです。

 
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