検見川聖書バプテスト教会
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  求めよ、さらば与えられん  

2008年10月26日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書7章7〜11節

[7]求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 [8]だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 [9]あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 [10]また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 [11]してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

説教要旨

本日の説教題である「求めよ、さらば与えられん」(文語訳)は一般的にも良く知られている有名なことばです。この句は、ややもすると“心に強く願い続けることは必ず実現する”という意味に取られますが、イエス様の教えられた意図とはかなり異なっています。どのように異なっているのか早速見ていきましょう。

<誤解されがちな点>
まず確認すべきこととして、この箇所では確かに祈りにおける熱心さ、しつこさが強調されています。しかし、だからと言って「私たちが熱心に祈りさえすれば、神は私たちの願いを何でも叶えてくださる。」とは教えられていないのです。この句を自己実現の法則として理解することは、人間中心の御利益信仰に陥り、最も大切な神の御心の何たるかを見失うに至るのです。さらに、信仰の弱い人がこの理解に立つと、自分の信仰不足を絶えず嘆くことになり、喜びであるはずの信仰生活が失望生活となってしまうのです。

<イエス様の意図されていること>
では、この箇所はどのように理解すべきなのでしょうか。その鍵となるのは、前章(6章)におけるイエス様の教えです。「主の祈り」の前半部分(9〜10節)と「思い煩いについて教え」(26節〜)の結論部分(33節)において、イエス様が強調されたのは、神に対して自分の願いを前面に出さないことでありました。

すなわち、祈りにおいて神に関することを最優先事項とすることが自分の必要が満たされる秘訣ということです。これらのことから言えるのは、本日の箇所において熱心に祈り求める内容は、自分のことではなく、神に関すること(みこころ)であることがわかるのです。

続く9〜11節の内容は、7〜8節を上述のように理解することで明瞭になります。ここでは、人間の親子関係を例にあげて、どんなに悪い人間であっても自分の子どもには良いものを与えることが示されています。このことを通して、イエス様は、それならば「なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう」と断言されているのです。

神様は、子である私たちに有害な物、不必要なものは決して与えません。必ず良いものだけを与えてくださるお方です。ですから、私たちが「神のみこころ」を熱心に祈るべき理由は、天の父である神様が私たちに対して、素晴らしく良いものをすでに用意してくださっているからなのです。

以上のことから、イエス様がこの箇所で意図されたのは、父である神の愛と配慮を受けている私たちクリスチャンが、この神との絶対的な信頼関係の中で、神の素晴らしいみこころがなるように、「求めつづけ」「さがしつづけ」「たたきつづけ」ることなのです。使徒ヨハネもこの理解に基づいて告白しています。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Tヨハネ5章14節)私たちも、この理解に立って、熱心な祈りをさらに神にささげていく者となりましょう!

 
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