検見川聖書バプテスト教会
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  人をさばくことと決別する  

2008年10月12日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書7章1〜5節

[1]さばいてはいけません。さばかれないためです。 [2]あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 [3]また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 [4]兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 [5]偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

説教要旨

山上の説教は、いよいよ最終章に入ります。前の章では、「天の父である神を意識して生きる」という視点から語られていましたが、この7章では「神のさばきを覚えつつ生きる」という視点から語られています。

<人をさばくとは>
まず冒頭においてイエス様は、人をさばくことを戒めておられます。「人をさばいてはいけません。」(1節a)人をさばくとは、批判的な思いを持って、“人のあら捜しをする”ことです。

具体的には、(1)自分のことを棚にあげて他人の欠点や落ち度を非難する、(2)自分とはあまり関係のないことにまで口を出す、(3)人のささいな失敗や欠点をつついて大きな問題に仕立てる、(4)詳しい事情を知りもしないのに先走ったさばきをする、などが挙げられます。

このような批判的習性と無関係な人は、果たしておられるでしょうか。私たちは、これまでの人生の中で、どれだけ自分を正しい立場に置いて、人を批判してきたことでしょうか。あるいは人を批判することによって、ひそかな優越感に浸ってきたことでしょうか。主に心を探り、調べていただきましょう。

<さばいてはいけない理由>
「人をさばく」ことを何故してはいけないのか、イエス様が二つの理由を挙げています。第一の理由は、自分が「さばかれないためです」(1b〜2節)。「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」とイエス様が言っておられるように、他の人をさばくことが、実は私たち自身のさばきに連動しているのです(参照:ローマ2章1〜5節)。これは絶対に避けなければならないことだと思います。

第二の理由は、さばく側に立つ自分自身にこそ早急に解決しなければならない問題があるからです。「なぜ、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。・・・見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」(3〜4節)ここでは、意識しなければ目に入らないような小さな「ちり」と、誰の目にも留まるほどに大きな「梁(家の天井に渡される横木)」が対比されています。すなわち、人をさばくことに関心が向けられている人は、「自分の目の中の梁には気がつかない」ことになるのです。人をさばく余裕があるなら、まず自分自身のうちにある問題を解決することが賢明ではないでしょうか。

<人をさばくことと決別する秘訣>
では、どうしたら、「人をさばく」という批判的習性と決別することができるのでしょうか。イエス様は「まず、自分の目から梁を取りのけなさい」(5)と勧めておられます。何よりも優先すべきことは、人のあら捜しをするという目の中の丸太を取り除くことなのです。それは、私たちが十字架のキリストを仰ぎ見ることによって可能となります。すなわち、罪の奴隷として悲惨な状態にいた私たちに対して、神がキリストを通して何をしてくださったかを思い起こす時、私たちは、罪ある自分の姿が良く見えるようになるのみか、人をさばけるほど自分が立派ではないことを痛切に知るのです。

 
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