検見川聖書バプテスト教会
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  神の愛。人間の愛。  

2008年9月21日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:エレミヤ書31章3節

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』

説教要旨

本日の話を通してイエス様は、神の評価は人間の評価とは大きく異なるということを明らかにしています。地上でどれだけ成功した生涯を送ったかは神の前に意味をなしません。肝心なのは神に助けられた者として歩んだかどうかです。さて、私たちは死後「金持ち」と「ラザロ」のどちらと同じ結末を迎えるでしょうか。私たちが生きているこの世の中は、とても殺伐とした様相を呈している。日々悲惨な事件が後を絶たない。多くの人は、そのような状況を憂い、不安を募らせながら暮らしている。また、本来温かいはずの家庭においても、夫婦や親子の関係がぎくしゃくし、コミュニケーションが希薄となりつつある。人間関係を難しくしている問題のほとんどが愛の欠如によるものであると言っても過言ではない。

「愛」とは、辞書によれば「対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き」である。このような他者を慈しむ思いは、健全な人間関係を築く上で不可欠な要素となる。この愛が正しく機能していれば、親子や夫婦、職場の同僚が助け合い、信頼しあう関係が成立する。しかし、この愛が正しく機能しないならば、互いに不満をもち、憎み合う関係となってしまう。ある人のことばで、「誰からも愛されないのは大きな苦痛だ。誰をも愛することができないのは、生の中の死だ。」というものがあるが、愛のない生活のつらさが伝わってくる。

聖書が示す「神の愛」は、敵を赦す愛、人の幸せを願う愛である。イエス・キリストは十字架上で、自分に殺意を抱く人びとのために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」と敵の赦しを祈られた。神の愛はたとい敵であっても、なお愛する意志をもつ。およそ人間が持ち得ない愛である。この十字架で死なれたキリストを知ることによって、人は神に愛されている「私」に気付くことができるのである。

人がこの神の愛に触れる時、自己中心的でしかない「人間の愛」は、その質を大きく変えていく。それは、自分中心の条件付の愛から、相手の立場に立つ赦す愛への転換となる。なぜそれが可能となるか。それは、どんなに赦し得ない相手であったとしても、神が私を愛し受け入れてくれた、その赦しの事実が根拠となって人を愛せるようになるからである。

あなたは、自分が誰からも愛されていないと感じてはいないだろうか。また、人を真実に愛することを諦めてはいないだろうか。神の愛は、そのようなあなたにこそ必要なのである。神はあなたに真実の愛を与え、自分や人を愛する力を与えようと用意されている。この神の愛を是非受け取っていただきたい。

 
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