検見川聖書バプテスト教会
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  思い煩わないで生きる  

2008年9月14日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書6章19〜34節

[19]自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 [20]自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 [21]あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 [22]からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 [23]もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。 [24]だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 [25]だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりもたいせつなものではありませんか。 [26]空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 [27]あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 [28]なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 [29]しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 [30]きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 [31]そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 [32]こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 [33]だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 [34]だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

説教要旨

私たちが普段覚えている思いの中で何とか決別したいもの、それは「思い煩い」ではないでしょうか。本日は、この「思い煩い」とは何か、そして、この思いと決別する必要性、さらにその方法について御言葉から見ていきたいと思います。

<思い煩いとは何か>
まず「思い煩い」とは何でしょうか。辞書によると「色々と考えて苦しむ」とあります。つまり、目の前の物事が自分の思いどおりに進まない時、「どうしよう」「どうなるだろう」とあれこれ心配することによって、気持ちが落ちつかなくなる(分割される)心の状態なのです。

そして、思い煩いの要因となるのは、私たちの生活に必要不可欠な衣食住、健康や仕事、人間関係の問題等です。これらはどれも生きていく上で、重要な役割を担っていますから、「どうでも良い」「成るように成るさ」では片付けられないものばかりです。ですから、自分の力で何とかしなければと思いつつ“思い煩って”しまうのです。

<思い煩いと決別する必要性>
では何故、この「思い煩い」と決別する必要があるのでしょうか。三つ理由があげられます。第一に、物事への過度な心配は、問題を解決しないばかりか、かえって問題を大きくしてしまうからです。思い煩うことは問題を解決する手段には決してならないのです。第二に、思い煩うことは、人の心を疲れさせ、精神的活力を失わせるからです。第三に、思い煩いは、神への信頼と同居できないからです。思い煩いと神への信頼は、絶対に相容れない関係にあるのです。

以上のことから、私たちに何一つ益をもたらさない「思い煩い」と一刻も早く決別することが賢明だと言えるのです。

<「思い煩い」と決別する方法>
イエス様が教えてくださっている方法は、二段階あります。第一段階は、全てを支配しておられる神に心を向け、この神の視点に立って物事を見ることです。「烏のことを考えてみなさい。・・・神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」(26〜30節)。

全ての支配者であられる神が、私たち人間を特別な存在として見て下さっているのみか、私たちの必要を全てご存知であるということに心を向ける時、私たちは神の視点に立って物事を見ることが出来るようになるのです。この視点を立つことによって、物事の捉え方が大きく変わるので、「思い煩う」ことがなくなってくるのです。

第二段階は、神の国(支配)とその義(正しさ)を優先順位の一番にすることです。「何はともあれ、あなたがたは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(33節)つまり、自らの願いを優先順位の最初に持ってくるのではなく、御名が崇められ、御心が成ることを最優先事項にすることによって、必要の一切は満たされるのです。一見逆説的な方法に思えますが、この結果、思い煩いの要因そのものを手放す(神に委ねる)ので、思い煩う必要すら覚えなくなるのです。

最後に、私たちはこのことを実践することによって、心を蝕む毒とも言うべき「思い煩い」と完全に決別しようではありませんか。そして、キリスト者として、神を信頼して生きる素晴らしさを存分に味わおうではありませんか!

 
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