検見川聖書バプテスト教会
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  金持ちとラザロの逆転劇  

2008年9月7日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書16章19〜31節

[19]ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 [20]ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 [21]金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 [22]さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 [23]その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 [24]彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。 [25]アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 [26]そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。 [27]彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 [28]私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 [29]しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 [30]彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。 [31]アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

説教要旨

スポーツの試合などで劇的な逆転劇というものがあります。野球の試合におけるサヨナラホームランなどはその典型と言えるでしょう。本日の箇所でイエス様が話された話も見事な逆転劇のひとつです。それでは見てまいりましょう。

<金持ちとラザロの地上での生涯>
この話には対照的な二人の人物が登場します。まず登場するのは、人生の成功者かのような生涯を送った「金持ち」です。この金持ちは、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」とありますから、人がうらやむような楽しい生活を送っていたのです。一方で次に登場するのが、人生の失敗者かのような生涯を送った「ラザロ」です。このラザロは、「全身おでき」の病気であること、乞食であること、住まいがないこと等から極めて悲惨な生活を送っていました。ここまでを見るならば金持ちが遙かに幸せに思えてしまいます。

<金持ちとラザロの来世における立場>
さて、この金持ちとラザロは共にその生涯を終え、場面は一転して来世に移ります。23節からを見てすぐ気づくのは、二人の立場が逆転していることです。成功者かのような生涯を終えた金持ちは死後、苦しみの場所である「ハデス」にいることに気付き、生前のラザロと比べられないほどの悲惨を味わっていたのです。それは、苦痛と孤独と絶望が伴うものでした。

一方で失敗者かのような生涯を終えたラザロは死後、慰めの場所である「アブラハムのふところ」にいたのです。彼は、死に際して「葬儀」すら成されませんでしたが、「御使いたちによって・・・連れていかれた」とありますように、神からの丁寧な出迎えを受けて、「アブラハムのふところ」で満ち足りた状態を味わっていたのです。それは、慰めと安らぎが伴うものでした。

真の人生の成功者はラザロだったことがわかります。ここに私たちは、人間の生涯における見事な逆転劇、驚くべき大どんでん返しを見ることができるのではないでしょうか。

<このような逆転劇が起こった理由>
では、一体何が要因となってこのような逆転劇が起こったのでしょうか。一言で言えば、誰を人生の主人、助け主としているかなのです。金持ちは、彼を生かし、来世に対して決定権を持つ、神に感謝する姿勢、あるいはこの神に喜ばれるために富を用いる姿勢はありませんでした。ですから、神からその人生が評価されず、死後に永遠の苦しみを受けたのです。

一方でラザロは、自分を生かし、必要な助けを与えてくださる神を助けとして生きた人でありました。その理由は、彼の名前「ラザロ(神に助けられた者の意)」に示されています。彼の生涯は確かに困難の連続で、弱さを覚えることばかりでした。しかし、その中にあってラザロは、神に助けられた者としての生涯を全うしたので、死後に神からその生き方が評価され、慰めを得たのです。

本日の話を通してイエス様は、神の評価は人間の評価とは大きく異なるということを明らかにしています。地上でどれだけ成功した生涯を送ったかは神の前に意味をなしません。肝心なのは神に助けられた者として歩んだかどうかです。さて、私たちは死後「金持ち」と「ラザロ」のどちらと同じ結末を迎えるでしょうか。

 
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