検見川聖書バプテスト教会
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  どちらの主人に仕えるか  

2008年8月31日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書6章24節

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

説教要旨

19節から24節は「人生をどう生きるべきか」が中心主題です。本日の箇所では、私たちが地上の人生を歩む上で、誰(何)を主人として仕えていくかが取り上げられています。

<イエス様の示された原則>
まずイエス様は、私たちクリスチャンは一人の主人にしか仕えることができないという原則を、「だれも二人の主人に仕えることができません」とのことばによって明らかにされています。この時、イエス様が念頭に置いていたのは、当時のローマ帝国において、絶対的な所有権を持つ「主人」に対して、絶対服従するしかない「奴隷」でした。

この「奴隷」という立場の人たちは、当時の社会の中で教師や財産の管理をするなど、千差万別の職業に従事していた一方で、法律上は生きた道具と見なされ、自分の権利が全くなかったのです。当然、彼らにとって仕えるべきは一人の「主人」のみであり、その主人のために生活の全ての時間を用いて仕えていたのです。この奴隷が、二人の主人に仕えることができない理由は、「一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじる」(24節b)ということから明らかです。ですから、イエス様はそのようなことを念頭に置いて、「誰も二人の主人に仕えてはならない」ではなく、絶対に「できない」と断言されているのです。

<人は誰に仕えて生きるべきか>
それでは、イエス様が「仕えることができない」と言われている二人の主人とは一体誰(何)を指すのでしょうか。イエス様は言われます。「あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節c)ここで「神」と並列に置かれているのは「富(マモン)」です。「富」とは、私たちの人生に不可欠なものであり、これがあれば大抵の願いは叶い、人生の拠り所にもなるものです。しかし、一方で「富」はまことの満足を人に与えないのも事実です。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」(伝道者5章10節)

しかも、「富」は人を信仰の道から迷い出させる誘惑ともなるのです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちが、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Iテモテ6章10節)富に高い価値を置いて生きることは、富を主人としてしまうことになり、それは最終的に人を破滅へと追いやるに至るのです。イエス様はこのような結果にならないために、クリスチャンが真に仕えるべきお方にのみ仕えて幸いな人生を送るよう勧めてくださっているのです。

最後に考えてみましょう。私たちは「どちらの主人」に仕えて生きているでしょうか。もし、神の御心に対して無頓着で、自分を喜ばせることに関心を払って生きているならば、その人は、「富(マモン)」に仕えていることにならないでしょうか。それはまさしく罪の奴隷です。もし、そのような生き方をしているならば、その罪を悔い改め、神のみを主人として、天に宝を蓄える者となりましょう。

 
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