検見川聖書バプテスト教会
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  澄んだ心の目を持って生きる  

2008年8月24日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書6章22〜23節

[22]からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 [23]もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

説教要旨

19節から24節の中心主題は「人生をどう生きるべきか」です。本日の箇所では、生きる上で大切な要素となる物事の見方・捉え方が教えられています。

<「からだのあかりは目」とは?>
まず、冒頭でイエス様が言われている「からだのあかりは目」とは、どういう意味でしょうか。現代の私たちには馴染みがありませんが、イエス様の時代の人々は、“目から光が体内に差し込む”と考えていたのです。「目」というからだの器官をそのような意味で捉えると、確かに目は、私たちが直面している物事をこういう風にもああいう風にも見ることができる限りにおいて、「からだのあかり」であると言えるのです。

<ここで教えられていること>
イエス様は、「目はからだのあかり」という考えに基づいて、二つのことを教えておられます。

第一に、健全な心の目はその人の全存在を明るくする、ということです。「それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(22節b)「健全」ということばの元々の意味は「純粋」「誠実」、別の訳の聖書では「澄んでいる」と訳されています。ですから、「目が健全」であるとは、物事をありのままに、正確に見ることができる物の見方だと言えます。このような心の目を持っている人は、物事を正しく認識することができるので、その人の人生そのものが明るくなるのです。

第二に、悪い心の目はその人の存在そのものを暗くする、ということです。「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」(23節)「悪い」ということばは、元々「物惜しみする」「欲が深い」という意味があり、他の訳では「濁っている」「不健全」と訳されています。ですから、「目が悪い」とは、物事に対して偏見や劣等感、トラウマなどを投影して見てしまう物の見方であると言えるのです。このような心の目を持っている人は、自分の偏った思いにとらわれて物事を見てしまうので、その人の歩みそのものが暗くなってしまうのです。

23節後半では、私たちの人生において大切なことは、直面している物事以上に、心の目の状態であることが明らかにされています。「それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」

<私たちが問われていること>
本日の箇所を通して私たちが問われていることは何でしょうか。それは、私たちの心の目は健全であるか、ということです。この問いかけを真摯に受け止め、各自自分の心の目の状態を点検してみては如何でしょうか。仮に、偏見や嫉妬、劣等感、過去のトラウマなど心の目が悪い状態にあるならば、その事実を素直に認めなければなりません。そして神様の取り扱いを頂きつつそれを取り除いて、健全な心の目を持って生きる者となりましょう。

「わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3章18節)

 
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