検見川聖書バプテスト教会
HOME教会案内メッセージギャラリーイベント全国の教会問い合わせ
  立派な人を演じない(3)  

2008年8月10日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書6章16〜18節

[16]断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 [17]しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 [18]それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

説教要旨

マタイ6章1〜18節では、宗教的偽善に対する警告が三つ取り上げられています。「施し」「祈り」と続きましたが、三つ目の偽善は「断食」です。ここから「立派な人を演じない」ということについて共に見ていきたいと思います。

<「断食」とは何か>
まず「断食」とは何でしょうか。一般的には、祈願や修行、あるいは病気治療、政治的抵抗、ダイエットなどのために一定期間食べ物を断つ行為です。一方、聖書における断食は、それに伴う肉体的苦痛を通して、罪の悔い改めを表現するものです(I列王21章27節)。ですから「断食」に先だって、人の内面において罪の自覚とそれに対する悔い改めの思いが必ず伴うのです。

<偽善的「断食」への警告>
しかし、イエス様の時代には「断食」という行為を、神に対する悔い改めの思いからではなく、自らの敬虔さを「人に見せるために」行なう人たちがいたのです。それは、当時の宗教指導者であったパリサイ人、律法学者たちでした。このような人たちは、断食を自己アピールの機会としていたのです。

イエス様は、彼らの心を見抜いておられましたので、ここにおいて「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。」(16節)と、偽りの断食を厳しく戒めておられるのです。このような行為は、敬虔さを装った虚飾(内容を伴わない上辺だけの飾りの意)虚栄(身分・財産・地位・実力などを実質以上にみせかけてそれを誇ることの意)だと言えないでしょうか。

このような人たちの偽善的断食に対してイエス様は、「まことにあなたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」と、まわりの人びとが断食をしている者に感嘆の声をあげるなら、それがその人の受ける報いの全てとなると、断言されたのです。結局のところ、そのような生き方は、神の前に虚しい偽りでしかなく、決して評価されるものではないのです。

<神を意識する生き方の勧め>
そこで、イエス様は17節において、人々に神を意識した生き方をするよう勧めておられます。「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」「頭に油を塗り、顔を洗う」とは、ユダヤ人であれば誰でもする普通の身だしなみのことです。つまり、自分が人にどういう印象を与えているか心配して、自分に対するイメージをコントロールしようとするのではなく、まったく普段と同じようにしていなさい、ということなのです。

その理由は18節に記されているとおりです。このことばは、6章の4節と6節にも出てくることばで、イエス様の勧めの結論でもあります。イエス様はこのような勧めを通して、私たちが神を意識する生活の必要を教えてくださっているのです。

<結論>
私たちが価値を置くべきことは、自己をアピールすることや他人からどう思われるかではなく、神への悔い改めと感謝に基づいて心から行動することではないでしょうか。そこから、本来の自分自身を生きる喜びが生まれるのです。

 
Copyright (C) Kemigawa Bible Baptist Church All Rights Reserved.