検見川聖書バプテスト教会
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  何による救いなのか  

2008年8月3日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:使徒の働き4章12節

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

説教要旨

5月に「何からの救いなのか」というテーマから、人間にとっての根源的な救いは“神の怒りからの救い”であると学びました。本日は、その救いの手段について諸宗教の教えと比較しつつ見ていきたいと思います。

<諸宗教における救いの手段>
世界には沢山の宗教があります。その中でも世界宗教と呼ばれる宗教は、現世的な救いよりも、根源的な救いの必要を説いています。例えば、イスラム教では死後における地獄からの救いを説き、そこから救われる手段としては「六信五行」(信仰+行い)という教えが挙げられます。また原始仏教では人間の執着心(煩悩)からの解放(解脱)を説き、そこから救われる手段としては修行が挙げられます。

これらは、いずれも人間の探求から出発して最終的に宗教の形態となっていったものです。ですから、いずれも救いを求める姿勢そのものは真剣です。しかし、だからと言ってこれらが提示している救いの方法が正しいとは言えないのです。なぜなら、人間の努力や行為は、どんなものであっても神の怒りから救われる手段としては全く意味をなさないからです。

<聖書が指し示す救いの手段>
それでは、聖書は「何による救い」を教えているのでしょうか。使徒4章12節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と記されています。聖書ははっきりと、イエス・キリスト以外には「だれによっても」救われる方法が無いことを宣言しています。何故ここまで言い切れるのでしょうか。

その第一の理由は、救いの完全性です。聖書の提示する救いは、全能なる神の側で入念に準備され計画通り実行に移された完全なものです。ですから、この救いを受け入れた人は、完全な救い、すなわち罪の赦しと永遠のいのちを自分のものとするのです(ローマ5章9節、8章1節)。救いの確信を持つことができるのはそういう理由です。

第二の理由は、救いの公平性です。聖書が提示する救いは、罪の悔い改めとキリストに対する信仰を告白するすべての人に分け隔てなく与えられるものです(ローマ3章23〜24節)。ですから、誰であっても信じることが可能なのです。 

第三に、救いにおける愛の大きさです。聖書が提示する救いには、神の人間に対する愛が込められています。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)この神の愛は、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったことにより、人類に明らかにされたものです。私たちは神に愛されているから人を愛し赦すことができるのです。

以上のことから、人の根源的な救いは、キリストによってのみ与えられると断言できるのです。永遠のいのちへと至る救いの門戸は今も大きく開かれています。キリストによる救いに預かる人々がさらに起こされるよう祈り励みましょう。

 
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