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2008年7月13日(日) 礼拝説教要旨 |
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聖書箇所:マタイの福音書6章9〜13節 |
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[9]だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 [10]御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。 [11]私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 [12]私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 [13]私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。) |
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説教要旨 |
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本日は、「主の祈り」の最後の願い「試みに会わせず悪よりお救いください」です。この願いは、私たちの霊的な必要に関するものです。この願いにはどのような意味があるのでしょうか。共に見ていきましょう。 <この願いの意味−「試練よ、あるな」ではない> 神が与えられる試練は、(1)父の子に対する愛(箴言3章11節、8章10節)であり、(2)人の心の中の隠れたものを明らかにする(申命記8章2節)ことと、(3)信仰を練り清める(ヤコブ1章2〜4節・12節、Iペテロ1章6〜7節)目的があり、(4)耐えられないものではないが(Iコリント10章13節)、(5)概して喜ばしいものとしては受け止められない(ヘブル12章5〜11節)、という特徴があります。 このように試練を理解するとき、私たちは自分の人生に起こる様々な困難を、むしろ自分の信仰に欠くことのできないものとして積極的に受け止められるようになるのです。それではこの願いの本当の意味は何なのでしょうか。 <この願いの本当の意味> 例えば、お金や異性、食べ物、テレビなど、それ自体は悪でないものを用いて、罪に引きずり込もうとするのです。また時には、自分にとってかけがえのないもの、愛すべきものまでが、誘惑の手段として用いられてしまうこともあるのです。時には光の子を装って近づいてくることもありますので見た目にも騙されないようにしなければなりません。 このような人間個人の力を圧倒するサタンの誘惑の前に私たち人間は無力な存在でしかありません。神が与えられる試練を、なかなか信仰的に受け止めることが出来ず、ついつい安易な考えに流されてしまうことはないでしょうか。 私たちが自分の力では霊的な戦いに勝利できない、という無力な自分を認める時、このイエス様の教えの真意がよく理解できるのです。そして、「どうか神様、あなたからの試練がサタンによって誘惑として用いられることがないように、どうか守ってください。」との切実な思いから、「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください。」と、祈るようになるのです。互いに祈りに励み、神の武具を身につけ、この霊的な戦いに勝利していく者でありたいと思います(エペソ6章10〜18節)。 |
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