検見川聖書バプテスト教会
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  必ずそれができるから  

2008年7月6日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:民数記13章〜14章10節

[13:1]主はモーセに告げて仰せられた。 [2]「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。 [3]モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。 [4]彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。 [5]シメオン部族からはホリの子シャファテ。 [6]ユダ部族からはエフネの子カレブ。 [7]イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。 [8]エフライム部族からはヌンの子ホセア。 [9]ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。 [10]ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。 [11]ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。 [12]ダン部族からはゲマリの子アミエル。 [13]アシェル部族からはミカエルの子セトル。 [14]ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。 [15]ガド部族からはマキの子ゲウエル。 [16]以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。 [17]モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブにはいり、山地に行って、 [18]その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。 [19]また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか。それらは宿営かそれとも城壁の町か。 [20]土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。 [21]そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。 [22]彼らは上って行ってネゲブにはいり、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。 [23]彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。 [24]イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。 [25]四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。 [26]そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。 [27]彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。 [28」しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。 [29]ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。 [30]そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」 [31]しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。 [32]彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 [33]そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。 [14:1]全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。 [2]イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。 [3]なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」 [4]そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」 [5]そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。 [6]すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、 [7]イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。 [8]もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。 [9]ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼ら恐れてはならない。」 [10]しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。

説教要旨

「必ずそれができる」ということばは、自分に絶対的な自信があるとき、あるいは人を励ます場合に用いられます。私たちクリスチャンの場合は、神の約束に対する信頼の強さを表すときに「必ずそれができる」と確信を込めて言い切るのです。本日は、この信仰の確信こそがビジョンの実現に不可欠なのだ、ということをイスラエルの民の姿を通して見ていきたいと思います。

<斥候の派遣と報告>
まず、民数記におけるイスラエルの民は、神と契約を結んだシナイ山を後にし、いよいよ約束の地が間近に迫っていました。このような状況の中で、指導者モーセは、約束の地の詳細な情報を得るために十二人の斥候を派遣します(13章1〜24節)。その後40日間の調査を終えた斥候たちは、民に対してその土地と住民の状況について報告します(25〜29節)。

この時、ヨシュアとカレブを除く十人の斥候は、何と神が与えると約束された地のことを民に対して悪く言いふらしてしまうのです。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。・・・私たちが行き巡って探って来た地は、その住民を食い尽くす地だ。・・・私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(31〜33節)

<報告を聞いた民の反応>
この報告によって民の心はくじかれ、落胆のあまり絶望するに至ります。「全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。」(14章1節)現実の困難さだけを見て悲観的になってしまった民は、不信仰な二つの態度を取りました。

第一に、神が立てた指導者につぶやく。「イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき・・・『私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。』」(2節)

第二に、神の御心を悪意に取る。「なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。」(3節)

この時のイスラエルの民は、自分たちが神に選ばれた特別な民であること、今のこの状況が神の偉大な御手の中にあって導かれていることをすっかり忘れてしまっていたのです。

<ヨシュアとカレブによる説得>
このような態度をとった民に対してヨシュアとカレブは、三つの事実を述べることによって説得を試みます。

第一に、神が与えようとしているのは「素晴らしく良い地」(7節)であること。不安要素にだけ目を向けるのではなく、祝福の豊かさに目を向けることが大切!

第二に、肝心なのは「私たちが神の御心に叶う」こと。真の問題は、事柄の大きさや難しさにあるのではなく、神がそれをどう扱われるかにかかっている!

第三に、神ご自身が勝利を与えていること。この事実こそがビジョンの実現に不可欠なことです。

しかし、残念ながらイスラエルの民はこの説得に応じることができず、神への不信仰をさらに強めてしまったのです(10節)。その結果どうなったかは周知のとおりです。民は40年間もの期間、荒野での生活を続けることになったのです。

最後に、本日の出来事を私たち自身に当てはめてみましょう。Tコリントには、「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(10章11節)とあります。私たちが神の約束を得るに際して覚えなければならないのは、イスラエルの民がした失敗(不信仰)を繰り返さないことに尽きます。私たちの教会も、神から与えられたビジョンを実現させるために、不信仰に陥ることなく、「必ずそれができる」という信仰の確信に立って共に歩んでいきたいと思います。

 
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