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2008年6月29日(日) 礼拝説教要旨 |
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聖書箇所:マタイの福音書6章9〜13節 |
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[9]だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 [10]御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。 [11]私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 [12]私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 [13]私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。) |
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説教要旨 |
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人間同士の争いは何故絶えないのでしょうか。世の中を見渡すとき、親子や夫婦に限らず、さまざまな人々が、互いに敵対しあって生きています。これは、実に悲しむべきことです。本日は主の祈り五番目の願いの後半部分「私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」という赦しの告白を通して、「互いに赦し合う」ことの必要性とその秘訣について考えてみたいと思います。 <この赦しの告白の意味> 人を赦すことの重要さは頭ではわかっていても、なかなか心が伴わないものです。イエス様は、このことばを通して、たとえ赦せない相手(敵)であっても、もう何のこだわりもない、という状態で相手の罪を完全に「赦しました」と神に告白するよう教えているのです。一見すると、かなり無茶な教えのように思えてきます。 <イエス様の意図されていること> 第一に、イエス様はこのように教えることで、私たちが、人を赦すことにおいて全く無力な存在であることに気付かせようとしているのです。私たちが人を赦せない「自分」を認めるとき、自分の愛の足りなさ、あわれみの無さを思い知るようになるのです。 第二に、人を赦せない思いを持ち続けていることが、どれだけ自分の心に深刻な問題を引き起こしているか、そのことにも気付かせようとしているのです。私たちは、自分の抱えている問題の本質が、どうしても赦せない相手や過去のつらい出来事にあるのではなく、人を赦せない自分の内側にこそある、ということを認めなければならないのです。心にある傷が癒されていないから、そこから憎しみや恨み、怒りの思いが吹き出してくる、それが私たちの心の健康を損なっているのではないでしょうか。以上のことから、相手との関係を回復させるためだけでなく、自分自身のためにも人を赦すという必要を私たちは覚えるのです。 <人を赦す秘訣> そのような意味で、私たちは自分の罪が完全に赦されていることを御言葉から再認識しましょう。そして、あくまで自分の力ではなく、私たちに与えられた神の大きな赦しのゆえに「負い目のある人を赦しました」と、日々神に告白する者でありたいと思います。 |
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