検見川聖書バプテスト教会
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  何からの救いなのか  

2008年5月4日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ゼパニヤ書1章14〜18節

[14]主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。 [15]その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、 [16]角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。 [17]わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。 [18]彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地にすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。

説教要旨

本日は、この大切なテーマについて、聖書から共に考えていきましょう。

<「救い」ということば>
まず、「救い」ということばについて整理してみましょう。辞書では、「人が不幸な状態から解放され、幸福が与えられること」とあります。このことばは、解放されたい現実に直面している時に適用されるものです。例:病気の痛み、肉体的なコンプレックス、家族の問題での苦しみ、将来の生活への不安etc。このような辛い現実からの救い(解放)は、本人にとっては切実な問題です。だから、どうしても“この現実から救われたい”という強い願いが出てくるのです。そして、各々に救い(解決)の手段を見出そうとするのです。

<目先の救いは究極的な救いにはならない>
しかし残念なことに、私たちが普段願っているような現実的な問題からの救いは、どれも“究極的な救い”、“絶対的な救い”にはならないのです。仮に、ある辛い現実から救われた(解放された)としても、また新しい問題に直面すれば、また救いを必要とするようになる。あるいは、より深刻な事態に直面したら、それまで自分にとって「救い」と思っていたものが、瞬時に吹き飛んでしまうということがあるのです。

ですから、突き詰めて考えると、私たちは、常に「救い」を必要として生きてはいても、自分が究極的な意味で「何からの救い」を必要としているかわかっていないということが言えるのではないでしょうか。だから、いつも目先の「救い」ばかりに目が奪われ、心が捉われてしまうのです。

<聖書は「何からの救い」を指し示しているのか>
以上のことを踏まえて、ゼパニヤ書をみていくときに、聖書が指し示す「救い」が何かがわかるのです。預言者ゼパニヤは、紀元前六世紀頃の南王国ユダに対する六つの宣告によって「何からの救いなのか」を明らかにしています。

◆宣告1「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。」(14節a)とあるように、ユダの国の人々は、差し迫った危機的状況に置かれている。

◆宣告2「勇士も激しく叫ぶ」(14b)とあるように、その日は、国の中で最も恐れを知らない人(兵士)ですら恐れおののく事態になる。

◆宣告3「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。」(15〜16節)とあるように、防備された町ですら持ちこたえられないほどに激しく攻められ、ゾッとするほどの悲惨と絶望に見舞われる。

◆宣告4「私は人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。・・・彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のように撒き散らされる。」(17節)とあるように、生ける神から見放され、無価値のものとして扱われてしまう。

◆宣告5「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。」(18節a)とあるように、その日は、人にとって拠り所(頼みの綱)となるはずのものが全く役に立たない。

◆宣告6「主は実に、地に住むすべての者をたちまち焼き払われる」(18節b)とあるように、この神のさばきの対象はすべての人であり、もれる人は誰一人いない。

これらのことから、聖書が私たちに指し示している救いは、“やがて来る神の御怒りからの救い”だと断言できるのです。私たちが救われなければならないのは、病気や人間関係の問題など現実生活におけるさまざまの苦しみからではなく(※現実生活の問題の解決を考えなくても良いという意味ではない)、何よりもまず私たちに向けられている神の怒りから救われなければならないのです。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで保たれているのです。」(Uペテロ3章7節)

最後に考えてみましょう。この究極的な意味での救いを、私たちはどれだけ節に求めているでしょうか。もし、その必要をそれほど覚えていないとすれば、聖書の御言葉の確かさを信じる者として、自分が救われているのが「何から」かを、改めて考える必要があるのではないでしょうか。

 
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