検見川聖書バプテスト教会
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  立派な人を演じない(2)  

2008年3月30日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書6章5〜8節

[5]また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 [6]あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 [7]また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 [8]だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

説教要旨

イエス様が二つ目に取り上げた偽善的善行は「祈り」です。祈りとは、信仰によって神と向き合おうとする人間の敬虔さが表れる行為です。イエス様の時代のユダヤでは、この祈りに偽善を持ち込み「立派な人を演じていた」人がいたのです。この箇所でも、イエス様は彼らの問題点を指摘しつつ御言葉を聞いていた人々に、そのような祈りを止め、神を意識した祈りをするように勧めておられます。

<人を意識した祈り>
イエス様はまず「人を意識した祈り」をすることを厳しく戒めておられます。この祈りの問題点は、祈りの対象としているのが神ではなく、自分の祈りを聞いている人だということです。この場合、動機となるのは、まわりから自分が認められることにあります。パリサイ人や律法学者たちは、自分の祈りに自信がありましたので、人々の注目の集まる「会堂や通りの四つ角」(5節)を祈りの場所として選び、「見栄のために長い祈りを」(マタイ23章24節)することによって、自分の誉れを得ていたのです。結局のところ、このような人を意識した祈りは、偽善的であり、神を完全に無視したものだと断言できます。

<神を意識した祈り>
一方で、イエス様が勧めているのは、「神を意識した祈り」です。対象となるのは、“お父さん”と気軽に呼ぶことができる「父なる神」です。父なる神は、ご自分の子である私たちの必要が何かをよくご存知です。ですから、私たちは自分の祈りが不十分であっても、適切に聞き入れられるという期待と安心をもって祈ることができるのです。この場合、祈りの動機となるのは、人からではなく、神から認められることにあります。

当然祈りの内容は、<1>神の栄光や偉大さをほめたたえる(詩篇145篇1〜3節)、<2>神の恵みを感謝する(詩篇103篇2節)、<3>自分の罪を認め告白する(詩篇51篇1〜4節)、<4>悩みを打ち明ける(詩篇22篇24節)、<5>現実的な必要を願う(Tサムエル1章:10〜11)、<6>人をとりなす(創世記18章22〜23節)ということが自然と祈られるのです。

この祈りをする人は、神のみに心を向けるため、他の人を意識しないで済む“心の密室”を敢えて選びます。神以外のあらゆる受け手が締め出される「自分の奥まった部屋」(6節)において、心を神に定め、心の思いを素直に神に打ち明けるのです。神を意識する祈りにおいて、上手下手や長さは全く関係ありません。この祈りの目的は、神が生きておられることを体験することができるばかりか、神はいつでも自分の祈りに耳を傾けてくださることを確認することにあります。

ですから、たとえ人からの評判を得なくても、また美しいことばが出てこなくても、神様は喜んで聞いてくださるのです。このような祈りこそが、神に届く祈りであり、祝福が与えられる祈りなのです。

以上のことから、私たちが問われていることは何でしょうか。それは祈りにおいて、誠実に神様と向かっているかということです。もし、出来ていないならば、そのことを正直に神に告白するところから始めてみてはいかがでしょうか。

 
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