検見川聖書バプテスト教会
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  立派な人を演じない(1)  

2008年3月16日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書6章2〜4節

[2]だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 [3]あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 [4]あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

説教要旨

6章の18節までは、当時最も宗教的な生活を送っていたパリサイ派のユダヤ人が重んじていた三つの善行が取り上げられています。ここでの言及を通してイエス様は「立派な人を演じていた」パリサイ人たちの問題点を指摘し、神を意識した生活を送るようにと勧めておられます。本日は1つ目の善行「施し」です。

<「施し」とは何か>
まず「施し」とは何でしょうか。一言で言えば、助けを必要としている人に対して、「憐れみの心」「同情心」をもって実際的な援助の手を差し伸べることです。現代においては「募金」「寄付」「義援金」などがあげられます。このような「施し」は、イエス様の有名な『良きサマリヤ人のたとえ』(ルカ10章29〜35節)で明らかにされているように、もともとは助けを必要としている人を「深く憐れむ」ところから発生する行為だったのです。

<偽善的「施し」への警告>
しかし、残念なことに、イエス様の時代には、困っている人を本当に同情する心からではなく、自分の名誉心から「施し」をする人々がいたのです。そのような人々は、施しを「人にほめられる」ことを目的として、わざわざ「会堂や通り」という人目につく場所を選んで行なっていたのです。イエス様はそのような人たちを「偽善者」(古典ギリシャ語の「役者」の意で、自分の名誉と誇りのために芝居をする者)と呼び、痛烈に批判しています。

彼らの偽善ぶりは、「自分の前でラッパを吹いて」(2節a)とイエス様が表現されているように、自分のやっていることを言いふらし、それに人々の注意を引きつけようとする点において顕著でした。2節の後半において、イエス様はこのような偽善者には、神からの報いがないことを明言されています。「まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」以上のことから、偽善的な生き方は、神の前に虚しい生き方だと結論づけることができます。

<神を意識する生き方の勧め>
偽善的「施し」を批判する一方で、イエス様は人々に対して、神を意識する生き方を勧めておられます。「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手にも知られないようにしなさい。」(3節)。この言葉の真意は、常に共同で作業をする右手と左手を例にあげることによって、その右手のしていることを左手に知らせないほどに、自分でも「私は善行をしているんだ」と意識しないことなのです。実際問題として不可能と思われることですが、このような勧めを通して、イエス様は、私たちの心を神を意識して生きることに向けさせようとしてくださっているのです。

私たちが、神のみを意識して生きるとき、自分が神から愛されている者であることに気付きます。すると、人には見せることのできない、ありのままの自分を受け入れられるようになるのです。その結果、自尊心が強くなり、人の目が気にならなくなるのです。だから「立派な人を演じる」必要も覚えなくなるのです。これが、神を意識して生きる者に与えられる地上での「報い」なのです。

 
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