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2008年3月9日(日) 礼拝説教要旨 |
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聖書箇所:マタイの福音書6章1節 |
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人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。 |
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説教要旨 |
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山上の説教は6章から新しい段落に入ります。6章の前半部分(1〜18節)は、当時のユダヤ人が重要視してきた宗教的な善行についての言及がなされています。ここでイエス様は、パリサイ人たちの偽善行為を糾弾しつつ、同時にキリスト者の真の態度、敬虔が何であるかを示しておられます。1節はその序論です。 <パリサイ人たちによる偽善的善行> 彼らの心には、善行を通して“人の役に立ちたい”“助けたい”という純粋な思いより、むしろ虚栄心(自らを実質以上にみせかけてそれを誇る)があり、それゆえに「人に見せる」ことを常に意識して、「人前で善行」をしていたのです。このような彼らが隠している本当の自分というものは、イエス様が「白く塗った墓のよう」(マタイ23章27〜28節)だ、と例えておられるように、外側は正しく見えても、内側は罪と偽りに満ちたものだったのです。 <偽善的善行への警告> 第一に、自分が人から良く思われたいという動機では善行をしないように。立派な人を演じる生き方は結局のところ虚しいだけなのです。 第二に、そのような人に対する神の評価はゼロである。たとえ、人が評価しても、神は本当の自分を隠す人を評価されません。どれだけ立派な「善行」を積み重ねていたとしても、その人に対して、来世における「報い」は何一つ用意されていないのです。偽善的善行の結末は、“虚無”の一語に尽きるのではないでしょうか。 最後に考えてみましょう。このようなパリサイ人たちの姿と私たちの姿とは重ならないでしょうか。もし、人から良く思われたい一心で、本当の自分(嘘つき・不真面目・不誠実・陰険)を覆い隠し、本来とは異なる自分を演じているとしたら、神からの報いの無い虚しい人生になるのです。本来、私たちが意識するべき対象は、人ではなく、「天の父」であるお方です。しかも、人となられた神であるイエス・キリストにこそ目を向けるべきなのです。 イエス様は、私たちの全てをご存知の上で、十字架に架かり死んでくださったお方です。このお方の前にあっては、私たちは自分を飾る必要はないのです。あなたは、このイエス・キリストを受け入れ、ありのままの自分を告白する恵みにあずかっておられますか? |
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