検見川聖書バプテスト教会
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  失われた息子を愛する父(2)  

2008年2月10日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書15章25〜32節

[25]ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 [26]しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 [27]しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 [28]すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 [29]しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 [30]それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 [31]父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 [32]だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

説教要旨

前回は、このたとえの前半部分(11〜24節)から、自分の罪を悔い改めて家に帰ってきた弟息子とそれを喜んで迎えた父親の姿をみました。本日は、このたとえの後半部分(25〜32節)です。この箇所では、放蕩した弟息子と対照的な生き方をしていた兄息子が登場します。

<弟の帰宅を喜べない兄息子>
弟息子が帰宅し、喜んだ父親が「肥えた子牛をほふって」祝宴を催した日、兄息子の方はいつも通り「畑」での仕事に精を出していました。彼は弟が財産を持って家を出た後も忠実に父に仕え続けていたのです。ところが、仕事を終え家路に着いた時、雇い人のひとりから弟の帰宅という思いがけない事実を知らされます。そこには、いつもと違う家の様子(25節)があり、普段見られない父親の姿(27節)もありました。このような事態に直面した兄息子は「おこって、家にはいろうともしなかった」(28節)のです。不機嫌な態度をとって押し黙っている様子が描写されています。ここにおいて、兄息子の心の底に潜んでいた“罪”が顔をのぞかせ始めました。

<父親に不満を吐き出す兄息子>
さて、この兄息子の心の底の思いは、彼を「なだめ」に出てきた父親に対して、洗いざらい吐き出されました。まず、彼は自分がどれだけ正しい人間かを父親に認めさせようとします。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」(29節a)このような主張は、自分の正しさばかりを主張するパリサイ人の姿と重なります。次に、そのような自分に対して、正当な報いが与えられていないことへの不満を口にするのです。「その私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません。それなのに・・・」(29節b、30節)彼の心の奥底にあった“罪”とは、自己義認の思いと父親に対する不満、さらに弟同様に世の楽しみに対する欲望だったことが暴露されました。結局のところ、この兄息子の本心(本音)は、行動に出さないだけで、弟息子とさほど変らないものだったのです。

<兄息子に対する父親の愛と赦し>
ある意味で、放蕩した弟息子以上に厄介な罪を抱えていた兄息子でありましたが、彼に対する父親の態度は愛と赦しに満ちていました。父親は彼を叱ったり、咎めたりせず、ただ黙ってその思いを受け止めたのです。そして、失われた存在であった兄息子に対して、父親は愛する「子」としての祝福と特権を思い起こすように促しました。「おまえは私といつもいっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが・・・」(31、32節)

この父親のことばによって、兄息子がどのような態度を示したのか、そのことについては記されないままにこのたとえ話は終わっています。父親に対して悔い改めたのか、それとも頑なな態度をとったのか。もし、私たちが兄息子の立場だったらどちらの態度を取るのか、自分に置き換えて考えてみては如何でしょうか。

 
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