検見川聖書バプテスト教会
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  失われた息子を愛する父(1)  

2008年2月3日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書15章11〜24節

[11]またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。 [12]弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 [13]それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 [14]何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 [15]それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 [16]彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 [17]しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 [18]立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 [19]もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 [20]こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 [21]息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 [22]ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 [23]そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 [24]この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

説教要旨

人間はその自己中心の性質ゆえに愚かな言動をしてしまうことがあります。物事を判断するとき、「自分にとってどうであるか」というな考えが基準となるので、結果的に大切な人との関係を破壊してしまうのです。本日は、「放蕩息子のたとえ」を通して、そのような人間をも愛の対象とする神について見ていきましょう。

<自己中心さの故に>
このたとえの前半部分(11〜24節)に登場する弟息子は、極めて利己的な人でした。彼は自分を養ってくれている父親に対して、感謝するどころか、何と財産の生前分与を要求し(12節)、さらに相続した財産をすぐさま処分し、父親の権威の及ばない「遠い国」へと旅立ったのです(13節a)。自分の権利ばかりを主張し、まわりへの迷惑を考えない彼のこのような言動は、自分さえ良ければいいという自己中心さがもたらしたものだと言えます。

<人生の悲惨と惨めさを味わう>
父から財産を譲ってもらい、念願の外国生活を始めた中で、彼は、全てが自分の思い通りに事が進んでいるかのような錯覚に陥っていたことでしょう。しかし、既に彼は自分自身を見失っていたのです。ですから「そこで放蕩して湯水のように財産を使って・・・何もかも使い果たし」てしまうという自堕落な生活をしてしまったのです。彼が、人生という坂道を転がり落ちていた時、泣き面に蜂となる出来事が起こりました。これまで衣食住の不自由さを経験したこと等なかった弟息子でしたが、予想外の「大ききん」によって、「食べるにも困」(14節b)るようになったのです。そして、お金を「湯水のように」使える立場から、人に憐れんでもらわなければ生きていけなくなるとう立場にまで転落してしまいました。そこには、彼がこれまで味わったことのない悲惨と惨めさがありました(15〜16節)。かつて、意気揚々と父の家を出たとき、まさかこんな目に会うとは思いもよらなかったはずです。彼はきっと、どうしてこうなってしまったのだろうと考えるようになったのではないでしょうか。

<自分と正面から向き合うに至る>
人生のどん底を経験したこの弟息子に大きな心境の変化が訪れます。彼は人生における悲惨と惨めさを味わったことで、自分の内にある真の問題と正面から向き合うようになったのです(17節)。彼はこれまでの人生を省みながら、自らの愚かさと罪深さを素直に認めつつ、そこから離れる必要を強く覚え、父のもとへ帰る決意をしたのです(18〜19節)。しかし、彼は自分が愛される価値を失った者であることをよく自覚していたので、父が憐んでくれて「雇い人のひとり」にしてくれるかもしれないという思いで、行動を起こしました。乞食同然で家に帰って行くことは恥も外聞も捨てた姿と言えます。

<憐れみによる回復を経験>
父がどのように自分を迎えてくれるのか不安を抱きつつ家路に着いた彼を、父は「雇い人」として迎えることはしませんでした。父はこの息子を叱ったりせず、遠くから「彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけ」(20節)して迎えてくれたのです。この父の深い憐れみと愛は、父なる神の愛を表すものです。そしてこの放蕩息子の姿は神の前における私たちの姿です。自分勝手で罪深い私たちを、神は深く憐れみ、悔い改める時に豊かな赦しを与えてくださる方であることを覚える者でありたいと思います。

 
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