検見川聖書バプテスト教会
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  系図に隠された神の愛  

2007年12月2日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書1章1〜17節

[1]アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。 [2]アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、 [3]ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、 [4]アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、 [5]サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、 [6]エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、 [7]ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、 [8]アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、 [9]ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、 [10]ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、 [11]ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。 [12]バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、 [13]ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、 [14]アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、 [15]エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、 [16]ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。 [17]それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

説教要旨

マタイ福音書の冒頭には「イエス・キリストの系図」が掲載されています。一見すると人物名だけが羅列されているように思えますが、注意して見ると非常に興味深い内容であることがわかります。四つの点から見ていきたいと思います。

第一に、イエス様がキリスト(救い主)として正統な資格を持っていることが証明されています。1節のことばは、「アブラハムの子孫」によって全人類が祝福を受けること(創世記12章3節、22章18節)、さらに「ダビデの子孫」によって王座が確立すること(Uサムエル7章12〜16節)を読者に思い起こさせ、その約束の成就としてイエス様がお生まれになったことが明らかにされているのです。

第二に、一目瞭然のこととして、将来復興する可能性のない家系にお生まれになったこと示されています。どうしてそう言えるのか。それは、先祖アブラハムから800年後の子孫「ダビデ」(6節)がイスラエルの王となるまでは良かったのですが、その400年後にこの王国は新バビロニア帝国によって滅ぼされ、王座を奪われた子孫は、「バビロン」(11節)へ捕囚として連れていかれたのです。この王国は再興することなく、その後イエス様の養父となった「ヨセフ」(16節)に至っては貧しい庶民(大工)であったのです。このような現実面を見ると、この零落した王家の家系から、王座が回復するとは誰も夢にも思わないでしょう。

第三に、家系の汚点となる女性の名が記されています。その女性とは、「タマル」(3節)、「ラハブ」「ルツ」(5節)、「ウリヤの妻」(6節)です。この女性たちはいずれも、不都合な経歴の持ち主なのです。「タマル」は、しゅうとであるユダを欺いて姦淫の罪を犯した恥ずべき女性です(創世記38章)。「ラハブ」と「ルツ」は、ユダヤ人からすれば忌むべき異邦人でありました(ヨシュア2章、ルツ記参照)。「ウリヤの妻」とは、ダビデが王としての立場を利用して、姦淫を犯した人妻バテシェバのことです。しかも、ダビデは極悪非道な仕打ちで夫ウリヤを殺したのです(Uサム11章)。本来なら絶対に公にできない事実ばかりです。しかし、これらの女性たちの名を敢えて記すことによって、著者マタイは、約束の救い主が罪人の子孫として生まれてくださったことを示しているのです。

第四に、キリストとしてお生まれになったイエス様は普通の生まれ方をなさらなかったということです。16節には「キリストと呼ばれるイエスは、このマリヤからお生まれになった」と記されていますが、これは「ヨセフ」がイエス様の出生に直接関係ないという事実を物語っています。このことについては、18節からに詳しく証言されていますが、この事実はイエス様には罪が無いということを意味しているのです。

この四つの点によって、御子が罪人である私たちのために、「ご自分を無にして・・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」(ピリピ2章7〜8節)ことで現された神の愛がはっきりとわかるのです。

 
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