検見川聖書バプテスト教会
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  敵を愛することについて  

2007年11月18日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章43〜47節

[43]『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [44]しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 [45]それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 [46]自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 [47]また、自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

説教要旨

六つの反対命題の最後は「汝の敵を愛せ」です。敵を愛するとは、キリスト教のトレードマークのようなことばです。ここにおいても、律法を誤って理解している人々に対して、イエス様が律法の真意を明らかにしておられます。

<旧約聖書における「隣人」規定>
旧約聖書は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19章18節b)と教えています。この規定には、自分以外のすべての人を含む「隣人」を愛するようにという意味があります。生まれながらの人間は自己中心的な性質があるので、どうしても敵をつくってしまいます。だから、限られた人しか愛せないのです。この「隣人」規定は、そのような人間に対して、“限定した愛の枠”を取り払うことを要求しているのです。

<律法学者、パリサイ人たちの誤まった解釈>
イエス様の時代の律法学者・パリサイ人たちは、この規定を自分たちに都合よく解釈し、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(43節)と人々に教えていたのです。彼らは、「隣人」ということばを、自分以外のすべての人ではなく、仲間のイスラエル人だけに限定して捉えたのです。その結果、「隣人」はユダヤ人だけを意味するようになり、それ以外の人(主に異邦人)を憎悪の対象として捉えるようになったのです。そして、そのような解釈がいつの間にかユダヤ人全体の常識になっていたのです。

<イエス様による正しい解釈>
このような理由から、人を限定した枠の中でしか愛せないばかりか、それを正当化するために御言葉をねじまげて「自分の敵を憎め」と付け加え、本来の意味を骨抜きにしてしまっていた人々に対して、イエス様は「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(44節)と言われたのです。「隣人」とは、「敵」や「迫害する者」を含む、という律法の本来の意味を明らかにされたイエス様は、「敵を愛し、迫害する者のために祈」ることが、本当の意味で「天の父の子ども」(45節)であることのしるしとなると言われたのです。さらに、愛を限定した例として、普段ユダヤ人たちから軽蔑されていた「取税人」(46節)や「異邦人」(47節)の態度をあげることによって、自分の親しい人だけを愛したり、挨拶することは、何ら特別ではないことを指摘されたのです。人が律法の真意を見失うとき、結果的にその教えを人間のレベルにまで引き下げてしまうことがよくわかります。

最後に考えてみましょう。私たちは、どうしたら敵を愛せるようになるのでしょうか。結論から言えば、人間の愛では不可能だということです。なぜなら人間の持つ自己中心的な愛には限界があるからです。しかし、神の愛には限界がありません。その愛のゆえに、「神の敵」(ローマ書5章10節)であった私たちを大きな犠牲を払って愛してくださいました。信仰によってこの神の愛を受ける人は、限界のない愛を持つ者へと変えられるのです。限界のない愛を受けた者が、この神の愛によって生きるとき、その人は「敵」をも愛することが可能となるのです。

 
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